演説ではなくおしゃべりがしたい

 こんばんは。大宮です。
 参院選が近づいてきましたね。駅前では各候補が支持を訴える演説をしています。立ち止まって耳を傾けることはめったにありませんが、徒歩で通過する数秒間は彼らの話を聞くことになります。どの候補に対しても感じるのは、

「こんなに大勢の冷たい他人の前で、よくこんなに堂々としゃべれるなあ」

 ということです。素直に尊敬してしまいます。僕には絶対できません。ただでさえ緊張するのに、誰も聞いてくれなかったりしたら恥ずかしさと悔しさで頭に血が上ってしどろもどろになってしまうからです。
 
 このブログも不特定多数の方が読んでくれていますが、書いているときは目の前に誰もいないので平気です。僕の文章を読んで笑ったり泣いたり共感してくれたりする理想の読者(つまり、僕自身です)に語りかけるように書けばいいのだと開き直っています。
 
 目の前に大勢の人がいるとダメなんです。「ああ、つまらなそうな顔をしている人がいるな。がんばって面白いことを言わなくちゃ。あ、すべっちゃった。どうしよう。ていうかアイツは寝てるぞ……」と悪循環にハマっていきます。

 でも、「聞き手の大多数が喜んでくれている、少なくともちゃんと耳を傾けてくれている」と確信すると、逆に好循環に入ります。
 先日、母校の講義に招かれて、卒業生として「働く」をテーマに語る機会がありました。単位ほしさに出席している200人以上の学生を前に一瞬凍りつきましたが、担当講師から「初めは学生も講師もお互いに緊張しているものよ。心配しないで」とアドバイスされ、無理をせずに少しずつリラックスしていくことにしました。
 すると、学生たちの表情も少しずつ和らぎ、30分ほど経過したあたりから教室全体が温かい雰囲気になりました(と僕は判断しました)。受け入れてもらえると調子に乗りまくる大宮講師。「学歴に縛られるな!」とか「挫折するぐらい何かに打ち込め。失恋も素晴らしい!」とか「俺は今でも朝、起きれない!」とか言いまくって、大反響を呼びました。いやー、楽しかった。

 不特定の多数に演説をぶつけるのではなく、ちゃんと反応してくれる誰かと対話がしたい。相手は一人が望ましいけれど、上記のような場合は200人全員、少なくとも170人ぐらいとは「対話」がしたいのです。だって、対話だったら無反応な人はほとんどいませんからね。たとえ賛同ではない反応だったとしても、それはそれで面白い。

 相手がいてもいなくてもいいような演説では話の内容は自分ひとりで考えなければいけません。でも、他者とのキャッチボールで成立する対話では、相手の反応によって思わぬ言葉が引き出されることがあります。「おお! 俺って意外といいこと言うじゃん」という喜びで興奮し、さらに鋭い意見が自然と口から出てくることもあるでしょう。

 今後、「演説」や「講義」を頼まれることがあっても、聞き手とおしゃべりをするような気持ちで臨もうと思います。
by jikkenkun2006 | 2007-07-21 00:29 | 週末コラム


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