感動的な仕事、感動的な文章

こんばんは。大宮です。
先日、2年ぶりに歯医者に行きました。
ヒュイイーーン ヒュイイーーン ガリガリガリ!!
うわー、痛いよ痛いよ怖いよ! あれ? 痛くない。
例の嫌な音は相変わらずですが、麻酔の注射もドリルの治療もほとんど痛みを感じず、しかもあっという間に終わってしまいました。
この歯医者さん、明らかに2年前よりも腕が向上しています。

「全然痛くなかったですよ! ありがとうございました」

と帰りがけに声をかけると、照れくさそうに「麻酔をしてましたからね。2時間ほどは食事しないで下さい。どうぞお大事に」と返す歯医者さん。うーむ、これぞ職人。カッコいいぞ!

感激しながら帰途に着きました。同時に、会社員時代に読まされたビジネス書の文章を思い出しました。

<< 自らの成長のためにもっとも優先すべきは、卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。能力は、仕事の質を変えるだけでなく、人間そのものを変えるがゆえに重要な意味をもつ。能力がなくては、優れた仕事はありえず、自信もありえず、人としての成長もありえない。
 何年か前に、かかりつけの腕のいい歯医者に聞いたことがある。「あなたは、何によって憶えられたいか」。答えは「あなたを死亡解剖する医者が、この人は一流の歯医者にかかっていたといってくれること」だった。>>
(P・F・ドラッカー『プロフェッショナルの条件』)


誰かに感動を与える仕事をするためには、卓越していることが不可欠ですよね。どんな分野でも「仕事ができる人」が一番尊敬されるべきです。現場で経験を積みながら、コミュニケーション能力も含めた仕事の腕を向上させていく。働く喜びですよね。

では、僕のように文章を書いたりしゃべったりすることを仕事にしている者にとって、卓越性はどれくらいの意味を持つのでしょうか。かなり疑問です。

もちろん技術や経験の意味はあります。雑誌や本を読んでいて、「この人の文章、超うまいなあ」とか「難しい漢字をたくさん知ってるなあ」とか「よくぞこんなに危ない取材をしたな」と、驚くことも少なくありません。

しかし、それで感動するのかといえばそうとも限りません。情報伝達が使命であるジャーナリズムなどは別にして、エッセイやコラム、評論、小説などの広い意味でのエンターテインメントに属する文章は、卓越性と感動は比例しないようです。

僕が最近、一番感動した文章は、ある養豚場の事務所に貼ってあった小学生の感想文です。「ブタはとっても●●●●でした!」と下手くそな字で大きく書いてありました。具体的にどんな内容だったのかは残念ながら忘れてしまいましたが、誰もが心の奥底では思っているけれど言葉にすることができなかった何かを的確に表現していたのです。戦慄と嫉妬を覚えました。

エンターテインメントや芸術の分野で誰かを感動させて食べていきたい人は、どんな努力をすればいいのでしょうか。あの小学生の感想文を思い出すたびに、絶望を感じてしまいます。

経験の積み重ねによる卓越性の追求、ではないことは確かです。むしろ邪魔になってしまうかもしれません。とはいえ、「完璧な文章が書けなければ誰にも見せない!」という態度もおかしい気がします。できるだけ素直な文章を書く、反論を恐れない、素直に書けそうにない仕事は断わる、ぐらいしかないのかな。とりあえずこのブログは続けていこうと思います。

今回は自分人生相談のようになってしまいました……。
by jikkenkun2006 | 2007-09-15 02:17 | 週末コラム


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