友だちの定義~読書伝聞帳(1)『剣客商売』~

f0084436_11274523.jpgこんばんは。大宮です。
2年ほど前、尊敬する先輩ライターから叱咤されたことがあります。
「大宮くんは教養がないねえ。本を読んでないでしょ。原稿で知識をひけらかすべきじゃないけど、知らないで書けないのと知っていてあえて書かないのでは、文章の微妙なところで大きな差が出るよ。見る人が見ればわかってしまう。もっと本を読まなくちゃ」
図星すぎる……!
仕事で必要な資料以外にはほとんど本を読んでなかった僕は、大ショックを受けました。
それ以来、月15冊以上は読むようにしています。

最初の3ヶ月ぐらいは「ノルマ達成」のための読書という感じでした。
でも、マンガのように純粋に楽しむことができる本に少しずつ出会い、いまでは暇さえあれば何か読んでいます。
高野秀行のおバカな探検ノンフィクションとか、やみつきです!

もともとおしゃべりは好きなので、活字に「いいこと言うね~」などと合いの手を入れながら読む喜びも覚えました。
激しく同意して、気に入った箇所を音読しちゃったりすれば、作家の言葉が自分の言葉になったような気分になります。ささやかな一人遊びですね。

今後このブログで、こうした読書から得た「伝聞知識」を紹介させてください。
書くというプロセスを経て、知識が体に吸収される気がするからです。
名付けて「読書伝聞帳」。……すみません、単なる読書感想文です。

<小兵衛が見舞いの金をわたすと、稲垣忠兵衛は、これを押しいただき、泪ぐみ、
「あ、秋山先生。何の御恩報じもできぬ拙者を、このように……」
「おぬしが好きだからだよ」
「は……?」
「きらいな奴には、何もせぬということさ」
「か、かたじけのう存ずる」>
(池波正太郎『剣客商売 十四』新潮文庫)

僕はときどき、「友だちって何だろう? 知り合いは多いけど、そのうちの誰が友だちで誰が単なる知り合いなんだ?」と不安になることがあります。
他人の心はわかりません。僕が大親友だと思っていても、そいつは僕のことを「昔の知り合いの一人」程度にしか思ってないかもしれませんよね。

じゃ、自分の心はどうなのか。
取材以外では「嫌なヤツ」と付き合う必要のないフリーライター暮らしなので、基本的には「知り合い=いい人」です。
いや、性格が無茶苦茶ひねくれているのに憎めないヤツもいるぞ。
性格も職業も年齢も性別もバラバラな「知り合い」のうち、誰を「友だち」と呼べるのでしょうか。

時代小説『剣客商売』に出てくる短いやりとりに、答えらしきものがありました。
天涯孤独の身の老友が病気で寝ていると聞いた主人公。ご無沙汰していたがすぐに見舞いに向かい、何の見返りも期待せずに大金をさらっと渡します。
「好きなヤツにはできるだけのことをする。嫌いなヤツには何もしない」
シンプルですね!
付き合いの長さや利害関係ではなく、好きか嫌いかで友情の有無が決まっていることがわかります。
好きな人のために力を尽くすことは、自分が信じている価値観(上記の主人公の場合は「謙虚さ」や「欲のなさ」)を確かめることになるのでしょう。その確認行為や感情が「友情」なんですね。

我が身を振り返っても、同じようなことをしているのがわかります(大金は渡せませんけどね)。
AくんもBくんも僕にとっては同じ程度のつきあいの知り合いだったとします。
仕事でテンパッているとき、Aくんから頼みごとの電話がかかってきました。
「申し訳ない。忙しいんでしょう?」
「いや、大丈夫。すぐやるよ」
逆に、暇で暇でどうしようもないとき、Bくんから頼みごとの電話がかかってきました。
「申し訳ないけど、お願いできる?」
「ちょっと難しいね。いま忙しいんだ」
「いつならできる?」
「3ヶ月ぐらい先まで予定が埋まっているので、難しい。悪いね」
「……」
このようなやりとりがあると、Aくんは友だち(Aくんは僕をどう思っているかは別として)でBくんは僕にとって知り合い以下の存在であることがわかります。

しかし、実際はそうシンプルにはいきません。
「いい人だという評判を作りたい」「恩を売って見返りがほしい」「自分をいいヤツだと思い込みたい」といった計算が無意識に働き、Bくんにも何かしてあげてしまいがちだからです。

すると、「友だちだけどなんとなく好きになれない」という不思議な人間関係が増えていき、実は一人も友だちがいないんじゃないかと孤独感に苛まされることになります。
すべては自分を楽なポジションに置きたいという甘え心から起きる副作用なんだと、いま書いていて気づきました。

もう少し自分と厳しく向き合って、「嫌いなヤツには(いやがらせも含めて)何もしない。好きなヤツにはできるだけのことをする」を心がけたいと思います。
その結果、友だちが3人ぐらいしか残らなくてもサッパリしていい、ですよね。
by jikkenkun2006 | 2008-09-07 01:20 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)
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Commented by SD at 2008-09-07 14:29 x
冬洋さんの人間行動学と自省をミックスした分析をいつも興味深く味わっています。

今回ふと思いました。
好きでもない人に対して、その動機(自己演出、見返りを求めて、義務)が何であれ何かを施してあげた場合に、自分の想定外の見返りがある場合があります。
想定していなかった感謝の念です。
自分の評判向上や目に見える見返りを抜きにして、私は単純なので感謝されると、ころっといきます。その感謝が本心からきたものかどうかを確かめるのは自分の経験値からくる直感しかありませんが。
もし、「嫌いなヤツには何もしない。」を貫き通した時に、こんな想定外の喜びを一生味わえないんじゃないかな、もったいなくないかなと思ってコメントしてみました。素朴な感想です。
自力で歩むことを決意した人とそれをせずにいる人間の歩み方の違いなのかもしれませんね。
これからもそんな洞察を楽しみにしていますね。


でも今回のメッセージは「好き」を判断基準にシンプルな生き方を、ということだったのかな。
直感的にそれはすごく好きです。
Commented by jikkenkun2006 at 2008-09-07 23:33
>SDさん
興味深いコメントをありがとうございます。こういう建設的な「反論」は大歓迎です! 確かに、嫌いな人を避けてばかりだと人生が貧しくなってしまいそうですね。気をつけなくちゃ……。ただ、八方美人で薄っぺらな人間になってしまうリスクとのバランスの取り方が僕にはまだわかりません。悩ましいところです。


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