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「継続は力なり」というより「継続の力なり」(週末コラムの最終回です)

こんにちは。大宮です。
親しい人と会食するときでも、最初の15分間ぐらいはなんだかぎこちない空気が流れたりしますよね。あの時間はちょっと気まずいものですけど、いきなり「本題」に入ったり無理にはしゃいだりするのは好きではありません。
どんなに親しい相手でも他人は他人ですし、自分自身が「いまどんな調子で何を考えているのか」もよくわからないときもあります。相撲の「立ち合い」のように、お互いの呼吸を合わせて気持ちよくぶつかれるように準備する時間が会話には必要なのだと思います。

最近、どんな記事を書くにも冒頭はこんな感じでモジモジするようになりました。いきなり本題から入ると、変な力みが出て自分の中の黒い部分(妬みや憎しみ、優越感など)がドバっと出てしまったりするからです。
こうやってとりとめもないことを書いていると、いまこの文章を読んでくれている人と時間を超えて(この文章をブログにアップしてから読まれるまでには時間差がありますよね)対話していることを思い出し、気持ちが落ち着いてくるのです。そして、読み手が楽しく受け取れる範囲で素直になろうと思い直します。たとえ本音であっても愚痴や自慢ばかりの会話は面白くありませんからね。

さて、本題です。
2006年3月からスタートした本ブログですが、ちょうど10年が経つ今月で更新を終了することにしました。今後は、メールマガジン(紹介と登録方法はこちら)とホームページ(今月中に開設予定です)に移行します。

10年前、僕は29歳でした(いま39歳なので当たり前ですね)。あっという間だったな、という感覚はあまりなくて、それなりに長くていろんなことがあったなあと感じています。

30代前半ではライターという仕事の方向性に思い悩む日々が長く続きました。焦燥感と退屈ばかりの時間、苦しかったなあ。僕にとっては必要な悩みだったと思うからこそ、この10年間をもう一度過ごしたいと思いません。というか、もし人生をやり直すならば、ディーン・フジオカみたいなイケメンにゼロ歳児から生まれ変わりたいです。

このブログ記事をすべて読み返す気にはなれませんが、「10年間もほとんど毎日更新を続けてきた」というのは我ながらすごいことだと思います。ちなみに、最初の投稿はこちらです。そこには、本ブログの効用について、こんな一文があります。

<(ブログ更新を)一年間ぐらい続ければ、自炊の頻度が増加するとか、イケてるレストランに行くようになるとか、結婚してしまうとか、何かしら前向きな効果があるかもしれません。>

10年後のいま、一人のときは納豆キムチ目玉焼き丼や豚汁を作って食べるようになったし、有名ではなくても温かみのある飲食店をいくつか覚えて通っているし、一度失敗したけれど二度目の結婚生活は今のところ楽しく送っています。
ただし、これらはブログを続けてきたおかげではありません。年齢を重ねる過程で、お店や人との良き出会いに恵まれた結果です。

継続は力なり、とは言いますが、継続して意味のあるものと特に意味がないものがあり、このブログは明らかに後者です。

作家の中村うさぎ氏がどこかでこんなことを書いていたのを思い出します。人が生まれることには意味はない。愛のないセックスの産物に過ぎないこともある。でも、どんな人にでも生きる価値はある、と。

僕の場合は、意味のないことでも楽しみを覚えればコツコツと続けていく力が僕にはある、という自己発見にはなりました。小さな子どもがどこにでもある瓶の王冠を集めるようなものですね。何の意味もない。でも、楽しい。継続の力はある、という事実だけが残ります。
自分主催の自分ファンクラブ飲み会「スナック大宮」は来週末で第50回を迎えますからね。2011年の秋以来、ほぼ毎月開催しているのです。かなりの継続力と言っていいのではないでしょうか。

楽しくマイペースにできることならば継続する力がある、という事実と自己発見。
そのまま放置して忘れ去ってもいいのですが、僕はまだ現役世代なのであえて意味を見出すことにしました。

包丁(ボールペン)1本で稼ぐという意味では、料理人とフリーライターは似ています。大きなお店で腕を振るうことは、名のある出版社の媒体で仕事をさせてもらうことと同じようなものですね。お店の看板でたくさんの良質なお客を集められて、恵まれた厨房設備や食材、人材も活用できます。
ただし、あくまで他人のお店なので好き勝手に働くことは許されません。お店独自の「お約束」を守ることが求められます。

一方で、家族で経営しているような飲食店もありますよね。店主はすべてが思いのままです。その代わり、お客さんが来なくても誰かのせいにすることはできません。僕はどちらかと言えばこのような家族経営のお店が好きなのですが、働くほうは大変そうだなと思ってきました。

でも、この文章を書きながら気づきました。彼らは「マイペースにできることならば継続する力」があるのですね。ホテルのレストランなどの大きなお店で働くよりも、自分の小さなお店を切り盛りすることが性に合っているのでしょう。

僕の場合は、出版社との付き合いをやめようとは思いません。力のある会社やプロの人たちと一緒に働くことは面白いし、勉強になるからです。
でも、マイペースな継続力も仕事に生かしたい。小さくてもいいから「自分のお店」を持ちたいと思うのです。編集プロダクション勤務の頃から数えると、「大きなレストラン」である出版社との仕事を15年間も続けて来たので、そろそろ自分の店を開いてもいいですよね。
まめな性格の僕ならば、飽きずに毎日店先を掃除して、おいしそうな食材を仕入れて、料理の仕込みをして、一人ひとりのお客さんを精一杯に迎えることができる気がします。最低でも10年は細々と続けられるでしょう。

というわけで、無料メルマガとホームページを始めることにしました。前者が店内と料理で、後者が看板と店構えのつもりです。常連客(メルマガ読者)が1000人ぐらいに達したら、独自の企画と取材で原稿を書いて有料メルマガも始めたいと思っています。

本ブログがなかったら思いつくことすらできませんでした。
10年間更新を続けてきたことの「価値」は、一つひとつの記事とそれを書いていた時間にあります。意味はなくても、僕にとってはかけがえのない思い出です。
ただし、本ブログの唯一の「意味」は、メルマガとホームページというお店を始められたことにあると思っています。
by jikkenkun2006 | 2016-03-19 22:33 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

婚活のミカタ

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 しっかり働いて稼いでいる独身男性を訪ね歩き、彼らの生態を聞き取る連載です。今回は人気職種の医師が登場。変人が多いと言われる職業でもありますが、お話を聞いた方はとても常識的で穏やかな人でした。遠慮がちすぎるところが問題なのかな。仲良くなった女性に対してならば、もうちょっと図々しく迫ってもいいと思いますよ!
by jikkenkun2006 | 2016-02-13 00:41 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

大人の男性に必要な「サービス精神」について

こんにちは。大宮です。
76年生まれの僕は来年に40歳になります。
不安や焦りがないと言えばウソになりますが、三十路を目前にしていた10年前に比べるとさっぱりした気分です。いろんなこと(一流のジャーナリストになる、など)を良くも悪くも諦めたからだと思います。ポンコツな自分を受け入れた上で、委縮せずに卑屈にならずに明るく暮らしていく所存です。

明るく暮らす、と簡単に書きましたが、実現するには工夫と努力が必要ですよね。
貯金は少なくてもいいけど借金はしない、完璧は無理でもそこそこの健康を保つ、仕事もしくは趣味で「夢中で取り組めるもの」を見つける、などが要素となると思います。

最近、同世代の友だちとおしゃべりをしていて、もう一つの要素を見つけました。「人間関係におけるサービス精神」です。
当たり前のことですが、僕たちはひとりきりで「明るく暮らす」ことはできません。一人暮らしであっても、生活をしていくためには人間関係は不可欠ですよね。

しかし、街中を歩いていると「金さえあれば人間関係など必要ない」と思っているかのような振る舞いをする大人(特に男性)が目につきます。常に無愛想で挨拶すらしない、店員に横暴な態度をする、絶対に道を譲らない、電車内で聴いている音楽の音量が大きすぎる、路上にゴミを捨てる、などですね。このような人が家族や同僚・友人だけには感じ良く接することはできないでしょう。年齢を重ねるごとに孤立して、寂しい末期を迎える気がします。

我が身を振り返りながら言い訳をすると、特に悪気はないのです。とにかく気が回らない、周りにも自分と同じ人間がいることを感覚としてわからない、どのように振る舞えば自他が気持ちよく過ごせるのかを知らない、ことが原因です。一言で言えば、サービス精神が欠落しています。

サービス精神といっても、おべんちゃらを言って媚びへつらうことではありません。他者の存在を認め、最低限の配慮をすることです。路上であれば道を譲り合い、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨て、電車内ではできるだけ静かにし、店員であっても何かしてもらったら軽くお礼を言い、同じマンションの住人とは挨拶ぐらいは交し、会話するときは相手に興味を持って耳を傾け、女性にはレディファーストを心がける。基礎編はこれぐらいで十分ではないでしょうか。

上級編としては、愚痴や悪口を言うときはユーモア(バカな自分をみんなで笑うスタンス)で包む、などが挙げられますね。これは僕もまだ研究中です。

サービス精神を発揮しても黙殺されることもたまにはありますが、たいていの場合は相手も生き返ったように嬉しそうな表情をしてくれますよね。場合によっては、相手もこちらにサービスを返してくれることもあります。自分が幸せになるためには、周囲の人たちも気持ち良く過ごすことが不可欠である。当たり前のことですが、頭で覚えるのではなく体で実践して身に着けていくべきだと感じています。

常連客も一見客もいい顔で飲み食いをして、お互いに配慮して譲り合う小さな居酒屋。そんな店にいるつもりで日常を過ごせたら、四十路を明るく送れる気がします。
by jikkenkun2006 | 2015-09-26 12:10 | 週末コラム | Trackback | Comments(8)

オレ、僕、私……。男の一人称について

こんにちは。大宮です。
物心ついたときから僕は、「オレ」を主語にして話してきました。父親と兄の影響で「オ」にアクセントがつく不思議な「オレ」だったのですが、兄だったか僕だったが小学校高学年のときに周囲の影響を受けて「オ」は低く抑えて発音する一般的な「オレ」に変わりました。男三人兄弟という小さくて同質性が高い社会では大事件で、わずか1週間ぐらいで3人とも「オレ」の発音が変わった記憶があります。

一貫して「私」を主語にしている女性に比べると、僕たち男性は年齢や状況、相手によって一人称を変えていくものですよね。僕が初めてそのことを強く認識したのは中学校に入ってから。暴力的かつ優しいヤクザみたいな体育教師の前で「オレ」を使ったら、「お前は俺の前でオレと言うのか。ふーん」と白い目で恫喝されました。あなたは「オレ」なのにオレは「オレ」じゃだめなの? 甘やかされて育った僕には上下関係や処世術がわかっていなかったのですね。

あれから20年以上経つ今でも僕は主語に迷うことがあります。口語では「僕」「私」「オレ」の選択肢があるし、書き言葉では「僕」「筆者」「私」などから選ばなければなりません。

書き言葉のほうから現状を振り返ってみると、「私」を使うケースは見知らぬ人に取材依頼のメールを送るときぐらいです。「はじめまして。私はフリーでライターをしている大宮と申します。このたびは……」ですね。見知っている相手には、年上の仕事仲間(編集者など)に対しても「僕」を使っています。大丈夫、ですよね?

4年ぐらい前から原稿で多用しているのは「筆者」。僕は主語のない文章があまり好きではないのですが、そうかといって「私」や「僕」を使うと頭の中の読者から「お前は誰だよ。お前なんか知らないよ。出しゃばるんじゃない」と突っ込みが入るのです。僕はインタビュー原稿であっても自分の感想や意見を書き加えたくなるタイプなので、せめて主語は大人しくて色のないものを選んでいるのだと思います。

でも、連載などでは「僕」を使うこともあります。(このブログも一貫して「僕」ですね)。読者はおそらく僕をある程度知っていて興味も少しはあるので「僕」で許されるだろう、「お前は僕の前で僕と言うのか」などとは叱られないだろう、と思っているのですね。「筆者」のときよりも読者に親近感を持ちながら書いていると言えます。それが良い方向に働くと飾り気がなく素直な文章になりますし、悪い方向に働くとひがみや恨みの感情が露骨に出て炎上したりします。「筆者」のほうが自分を抑制しやすいので無難かもしれません。

口語に関してはある思い出があります。30歳ぐらいのときに付き合っていた年上の女性から「私はSMAPで例えるならキムタクよりクサナギくんが好き。キムタクは『俺』だけどクサナギくんは『僕』だから。後者のほうが知的で誠実で優しい大人に感じる。実際、現実の男性を観察してもその傾向はあると思う」と言われたのです。
その女性の前で僕は「オレ」を使っていました。彼女のために一人称を変えるほどは恋していなかったのでしょう。1年ほど経ってから別れることになりました。

それでも最近は、「オレより僕のほうが得をするかも」と気づきつつあります。
親兄弟や親しい旧友の前では10代の気分に戻って「オレ」を使っているのですが、主語が「オレ」だと立ち振る舞いや話す内容まで少し乱暴になってしまう傾向がありますね。もちろん、タメ口です。それで許し合えていればいいのですが、相手によっては不快に感じているかもしれません。

それに比べると「僕」は格段に丁寧ですよね。顔の表情まで穏やかになるのがわかります。年上や見知らぬ人と話すときは丁寧語とセットにすればいいし、友だちが相手の場合はタメ口と組み合わせることで適度な距離感を保てます。
特に、大人になってから親しくなった年下の人たちと話すときは、「オレ」だと圧迫感や粗雑な印象を与えやすいですよね。「僕」に切り替えることで付き合いの幅が広がっていく気がします。

あと10年ぐらい経ったら、「昔の私は世間の皆様に甘えて『僕』を使っておりました。汗顔の至りです」などと言っているのかな……。
by jikkenkun2006 | 2015-05-23 11:56 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

狩猟採集に没頭して、「お金」と「自意識」から適切な距離を置く

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こんにちは。大宮です。
先月まで5年間にわたり、特定の食材や料理に偏愛を捧げている人たち「食べ物マニアーズ」にインタビューをしていました。合計60人のマニアたちに会って、毎回のように感じたのは「お金や自意識と離れた何かに無心で取り組めるって素晴らしい」ということです。

自転車操業で自営業をしている僕は、「お金」と「自意識」が頭から離れるのは、親しい人と楽しく飲み食いしているときや映画を観ているときぐらいです。でも、もう少し主体的で健康的な趣味を持ちたいとずっと思っていました。散歩や街歩きも好きなほうですが、歩いていると座っているとき以上にあれこれ考えてしまうので、運動にはなっても気分転換にはなりません。

いま、一番可能性を見出しているのが釣りです。3年前に海沿いの町(愛知県蒲郡市)に引っ越してからは、ゴルフに行きたい義父に無理矢理お願いして堤防釣りをしています。僕の技術で堤防から狙えるのは、セイゴ(スズキの稚魚)・ゼンメ(ヒイラギ。雑魚扱いであまり市販されていないけれど煮魚にすると絶品)・カサゴ・コチ・キス・ハゼ程度で、いずれも15センチ足らずの小魚。それでも、魚がエサを食って針にかかると海の中から糸と竿を通してビクッビクビクッとした生々しい振動が伝わってくるのです!

この時点では何が釣れたのかわからないけれど、おそらくおいしく食べられる新鮮な魚を自分の手で得たという喜びと誇らしさ。釣竿を立て、リールを巻くと、海の中から白っぽいものが見えてきます。生きた魚が僕の手で引き寄せられてくる。快感としか言いようがありません。

遠い昔、僕の祖先が狩猟採集生活をしていた頃の記憶がDNAに刻まれているのだと思います。その頃に生れても、僕は「好きな割には下手で向上心もない」狩人だった気がします。頼もしくて面倒見のいい兄貴的な存在にくっついて狩りに行き、兄貴が大物を仕留めたら何より嬉しくて、自分は小物を得たら満足、という性格だったことでしょう。

ただし、狩り(釣り)の道具ぐらいは自分でセッティングできるようにならないと足手まといになり過ぎますね。NHKの朝ドラ『まれ』でも能登の子どもたちが自分たちだけで磯釣りをしている光景が描かれていますが、海辺の子たちにとって「釣り」は「虫取り」と同じぐらい当たり前の遊びなのです。38歳の僕もせめて小学生レベルにはなる!のが今年の目標です。

というわけで、昨日は、編集者のオオツくんがプレゼントしてくれた釣竿に、義父がくれた簡単なリールを付け、近所の釣具屋でアオムシ(青ゴカイ)を500円分買って、家から徒歩4分の港に釣り糸を垂らしてみました。アタリ(魚がエサを食べること)は全くありません。漁港ではなく工業用の港であり、向こう岸の埋め立て工事が進んでからは夏場でも釣り人をほとんど見かけなくなりました。

1時間ほどであきらめて、廃線の危機をささやかれている名鉄蒲郡線に乗って東幡豆漁港(写真)へ。今度は2回ほどかすかなアタリがありましたが、2時間ほど粘っても釣果はゼロ。初挑戦は失敗に終わりました。釣り好きの人によれば、僕たちが住んでいる三河湾の沿岸にはGWが明けないと魚が入って来ないのだそうです。海の季節は陸上よりも1ヶ月遅れると言われていて、気温ほどには水温は上がっていないので、居つきの魚(季節に応じた回遊をせずに沿岸の岩陰でじっとしている魚)も活性していないのでしょう。

釣れなかったけれど、不慣れな僕はボンヤリと考え事をしている暇はありませんでした。釣り糸にオモリや針をうまく付けられなかったり、長すぎるアオムシをちょん切るのに躊躇したり、リールが不調になってしまったり。釣れた魚をしまう準備はビニール袋と保冷剤しか持って行かなかったので、小さなクーラーボックスは必要だなと気づいたり。魚ではなく道具と格闘していたらあっという間に3時間が過ぎました。

基本的には親しい人たちと会話もしながら釣りを楽しみたい僕ですが(明後日は義父と友人と一緒に知多半島近くの日間賀島で早朝から船釣りです。島なら釣れるかな…)、たまには一人で釣り糸を垂れて練習するのもいいなと思っています。大物が釣れたときのために出刃包丁でも買おうかな……。お金と自意識という「現代人の2大病」と適切な距離を置くには、自分に向いた方法で自然に遊んでもらうのが良い気がしています。
by jikkenkun2006 | 2015-04-24 16:44 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

好きな人には敬意と感謝をわかりやすく示す。嫌いな人には何もしない

こんにちは。大宮です。
田辺聖子氏の文章が好きで、小説だけでなくエッセイも熱心に読んでいます。女性側の視点で恋愛について書いていることが多いのですが、男性の僕も「わかるな~」と共感できるから不思議です。賢くてチャーミングな大人の女性と、気配りが行き届いたお店でおいしいものを食べながら語り合っているような感覚に近いのかもしれません。読みながら自分も何か言いたくなる、というのは良書の証ですよね。お金と本棚スペースに余裕ができたら、集英社から出ている田辺聖子全集を購入するのがささやかな夢です。

田辺氏は「好きな人やモノを愛して、自分も愛されるのが人生の目的。その他のもの(お金、制度、論理、組織、権威……)はこの目的を支える道具でしかないことに気づかない人が多すぎる」という趣旨の文章を書いています。このときも僕はページの端をちょっと折って「感動した~」と一人で反応しましたね。で、いまこのコラムを書きながら、「好きな人に愛されて、自分も愛されるのは確かに人生の目的だけど、そのためには人間関係でどのように振る舞えばいいのだろう」と考えたくなりました。

僕には悪癖というか悪い意味での子どもっぽさがあります。
「親しい人には甘え心で不愛想もしくは無礼な態度をとってしまい、嫌いな人にはほぼ他人であっても嫌悪感を伝えずにはいられない」
というものです。
結果として、心優しくて度量が大きい長男長女タイプの人だけが「こいつは幼稚なところがあるけれどしょうがないか」と懲りずに付き合ってくれる一方で、様々な場所で不要な「敵」を作ってきました。

人の性格は基本的には変わらないと思いますが、欠点が表面化しすぎないように意識して言動を矯正することはできますよね。
僕の場合は、「親しい人(親しくなりたい人)には敬意と感謝を示し続ける。嫌いな人(苦手な人)には何もしない」ことが必要な気がします。

具体的な行動は次のようなものでしょうか。
前者に対しては親近感を込めながらも丁寧な言葉遣いで接して、折に触れて「元気にしていますか。また会いましょう」と気を遣い、たまには何か贈り物をする。後者に対しては「さわらぬ神に祟りなし。お互いにできるだけ離れたところで生きて死にましょう」の精神で忌避感を込めて丁重に接し、自分からは連絡を取らないようにして、後から思い出して腹が立つことがあっても忘れるように努める――。

人は自分を大事にしてくれる人が好きになるのが普通なので、好きな人たちにはわかりやすく定期的に愛情を伝えていれば、「愛し愛される」関係を維持・発展できるでしょう。同じように人は敵意にも敏感なので、無用な敵を増やさないためには「とにかく何もしない。仕返しや攻撃をしたくなっても別の誰か(神様とか)に任せる」心がけを保たねばなりません。

社会に出るまでにこの程度の処世術は身に着けておきたかったのですが、今からでも「やらないよりマシ」ですよね。このように書き出すことで自分を少しは律することができればいいな……。
by jikkenkun2006 | 2015-04-11 10:23 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

「物々交換」で貨幣経済から自由になるということ

こんにちは。大宮です。
先日、仕事で会った人からちょっとびっくりする話を聞きました。
その人のお姉さんは日本海側の某県で住んでいるそうですが、漁師の夫と子ども3人で世帯年収は250万円だというのです。一戸建ての持ち家はすでにあり、食費はゼロに近い(魚を野菜や米などと交換)ので、家族5人で健やかに暮らしているとのこと。
関東地方の山の中で飲食店を営んでいる知人も、子どもと奥さんがいて年収400万円だと言っていたのを思い出しました。彼の趣味は中古車の改造なので特に慎ましい生活をしているわけではありません。やはり食費などの生活費がほとんどかからないのでしょう。

僕も東京から愛知県蒲郡市という地方都市に引っ越して来て2年半近くが経過しました。
妻の実家が農業や漁業も盛んな隣町にあり、蒲郡駅近くにある自宅には地元で作った友だちを食事に招いたりするので、東京で生活していたときに比べると「おすそ分け」や「お土産」の食材や料理、加工品がたくさん食卓に上るようになりました。

昨夜は、イチカワくんが夕食を食べに来ました。手土産は、ワイン好きの奥さんが持たせてくれたという上等の赤ワインとおすすめのジャズCD。食材費は3人分で3000円ほど。これで3時間以上もおいしく飲み食いできて週明けの労働に向けて充電できるのだから安いものですよね。あえて比較をするならば、イチカワくんの赤ワインとCDのほうが明らかに高いので、我が家としては「海老で鯛を釣った」ような状況です。

実際には、イチカワくんの奥さんはかなりの目利きなので、いいワインを安く手に入れているのかもしれません。CDに関しても同様ですね。でも、ワインにも音楽にも詳しくない僕は大いに感激しました。イチカワくんも、昨夜のメイン料理で使った魚が一匹150円だったとは気づかなかったでしょう。貨幣経済のように等価交換ではないのが物々交換の醍醐味だと感じています。

こんな風に親しい人と物々交換をするのは楽しいですよね。
ポイントは、自分ができることで周囲の人に喜んでもらえるものは何かを探して、見返りを求め過ぎず、どんどん分かち合う姿勢だと感じています。
農家でも漁師でもなく、あらゆる実務能力が劣っている僕にも提供できるものは3つもあります。

●駅近くの自宅:車の運転が苦手なので仕方なく駅前の広くないマンションに住んでいる。だからこそ、電車やタクシーに乗りやすいので、お酒を飲みたい友人たちに集まってもらえる。
●マメで人懐こい性格:フェイスブックやツイッターはやっていないけれど、電話やメールでこまめに連絡を取ることができる。親しくなれそうだと勝手に感じた相手には、ほとんど躊躇せずに食事に誘える。
●ライターという職業:好きな人や店、サービスなどに関して、取材執筆して応援・宣伝することができる。

上記の特技を生かして、来月は紙1枚だけの小さなフリーペーパーを発行する予定です。蒲郡駅前で僕の好きなお店や場所、人だけを紹介する内容なので、広告などは載せません。制作費は自腹を切ります(表紙の絵はイチカワくんが描いてくれる予定。お礼はまた夕食をご馳走すればOK)。このフリーペーパーを1000部ほど市内外で配ることで、住み心地の良いこの町に恩返しをしたいと思っています。住み心地とフリーペーパーの物々交換ですね。

貨幣経済から完全に離脱することはできないし、その必要もありません。僕も高級ホテルに泊まるなどの贅沢をたまにするのが大好きです。ただし、普段の生活では貨幣と適切な距離を置くことは大事ですよね。全身どっぷり浸かってしまうのは「自分という人間には財産と年収だけの価値しかない」と自己規定しているようなもの。それではいくらお金があっても焦燥感や寂しさから抜け出すことはできないと思います。貨幣にとらわれ過ぎず、自由になるためには、広い意味での物々交換がキーワードになると僕は感じています。
by jikkenkun2006 | 2015-01-18 15:08 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

食生活ブログ、9年目に入りました

 こんにちは。大宮です。
 2006年3月から書き始めた本ブログ、気がついたら丸8年が経っていました。歳月が過ぎるのが早いとも遅いとも感じないのは、私生活でも仕事でもそれなりの変化があったからかもしれません。引っ越しだけはしばらく避けたいな……。

 毎日の食事を記録し続けていて思うのは、僕は食べ物そのものよりも「誰が作って、誰が提供してくれた食べ物なのか。それを誰と一緒に食べるのか」に関心があるということです。
 朝ご飯を食べた直後に昼ご飯のことを考え始めるほど食いしん坊の割には、一日の終わりにブログをつけようとして「今日は何を食べたっけ?」と思い出せないことがあります。外食だと<●夕食:アジア料理各種@西荻「ぷあん」>などと書いて済ませてしまうことがほとんどです。素材や調理法など覚えていられません。出してもらったものをおいしく楽しくきれいに食べればいいんですよね。

 ブログ継続のメリットもいくつかあります。一つは、おおまかな健康チェックができること。一日三食ではなかったりすると生活が乱れている証拠ですよね。昼過ぎに起きて明け方に寝る生活をしていた頃は、昼食夕食夜食という「三食」だったこともあります。30代後半になった今やったら激太りしそうだな……。
 毎晩のように飲みに行っていたりすると(ほとんどは仕事の会食ですけどね)、4日目あたりのブログを書いているときに「飲み過ぎじゃないかな?」と感じるようになりました。親切な読者にコメント欄で食生活アドバイスをもらったりすることもあります。ありがたいです。

 対外的なメリットは、このブログを読んでくれている友人や仕事仲間や親族に「大宮はどんな料理や飲食店が好きなのか」を知らせることができることです。改めて言葉にするならば、「朝と昼は納豆ご飯があれば大満足。夜はできれば飲みたい(休肝日もあるけど)。家飲みだと最高。スカした店や愛情のない店は苦手で、誠実でリーズナブルな店に何度も通っている」ということでしょうか。

 サービスに定評があるような一流店でも「冷たい」「馴れ馴れしすぎる」と感じることはありますよね。きっと相性が合わないのでしょう。そういう店はどんなに近くて美味でも再訪しません。
 一方で、食べ物や客に対する愛情ゼロと感じる店もあります。セブンイレブンのおにぎりやジョナサンのタンメンでも平気な僕ですが、「東京チカラめし」と「はなまるうどん」だけは許せません。

 だからこそ、手料理(インスタントラーメンでもいいのです)を食べさせてくれたり、行きつけの居酒屋に連れて行ってくれたりする人は大好きになってしまいがちです。公務員ではなくて本当によかったと思います。素敵な店で接待されたら、入札情報などをどんどんしゃべっちゃうだろうなあ。

 というわけで、今後ものんびりブログを続けますね。ご愛読のほどよろしくお願いします(今夜は家族と久しぶりに深酒する予定なので更新しませんけど)。
by jikkenkun2006 | 2014-03-08 11:29 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

「陰」な人が無害に明るく生きていくための2箇条

おはようございます。大宮です。
おしゃべりのネタとして、人間を2種類に分けるのって面白いですよね。
先月の「スナック大宮」でお客さんから聞いた話は、「童貞的な人とプレイボーイ的な人は、初キスの相手や状況を詳細に覚えているか否かで分けられる」というものでした。

ただし、「面白い」を通り越して、我が身を真剣に振り返ってしまう分け方もあります。
接骨院を経営している友人から聞いたのは「人間は陽と陰に分けられる」。
体温が高くて活動的で前向きなのが陽で、体温が低めで不活発で内向的なのが陰。
この体質というか性質は変化することもあるけれど、基本的には生来のものらしいです。

この話を教えてくれた友人(愛知在住の女性)は、自他ともに認める陽の人間。体が常に熱いのだそうです。
1人で施術している接骨院はキャンセル待ちになるほど人気で、平日は朝から晩まで体を使って仕事しています。
週末になると、勉強会や遊びのために関西や東京に車で出かけ、また夜通し運転して愛知に帰って来て、仮眠を取ってからスポーツを楽しみ、夜は飲み会に参加、少しだけ寝て翌朝から仕事、みたいな生活を送っています。
体力もさることながら、好奇心や気力が尋常ではありません。

残念ながら、僕は陰の人間です。
活動的になれるのは調子がいいときでも1日のうちに4~6時間程度。この時間ならば、見知らぬ人に会っても前向きに接することができるし、原稿などの文章も比較的明るいトーンになります。
しかし、その他の長い時間は眠くなったり疲れたりぼんやりしてしまうのです。起きている時間の大半は「どちらかといえば陰」。1日中やる気が起きないことも少なくありません。

寝る前などには特に陰な数時間があります。
いろいろなことが不安になり、自信がなくなり、失敗や屈辱の経験を思い出し、嫉妬や恨みが増幅し、やるせない気分になるのです。
このタイミングで他者とコミュニケーションをすると、会話も文章も嫌味と悪口が充満してしまいます。
悪意を投げると悪意が返って来ますよね。
不特定多数に向けて発する原稿などの文章だと最悪です。このブログの記事も含めて、陰の気分で書いて発して後悔した経験が何度もあります。

とはいえ、今さら「陰から陽」に変わるのも難しいでしょう。
体質改善を試みてスポーツジムやダンス教室に通ったこともあったのですが、着替えるのが億劫だったり疲労が蓄積したりハイテンションな周囲に圧倒されたりで、余計に陰になるというアホな結果に終わりました。

陰な自分を受け入れつつ社会で楽しく生きていくには、次の2つを守るしかないと思い至りました。
まず、陽でいられる数時間を確保するための環境整備に努めること。8時間以上の睡眠や温かい服装、腹八分目のおいしい食事、頻繁な気分転換、清潔な居場所(アレルギー性鼻炎なので)、良好な人間関係、ささやかな貯金が僕には不可欠です。
コミュニケーションや生産活動はこうして生み出したわずかな時間に集中させます。

やがて陽であることに疲れ、陰の時間がやってきます。
このときはネットの利用を控え、家族(妻)以外との会話もできる限りしない。電話に出なくてもいい。原稿は絶対に書かない。
陰なときはとにかく何の判断も行動もせずにやり過ごすのです。運悪く誰かと飲んだりしていたら、曖昧な笑みと曖昧な返事に徹して、意見表明はせず、可能な限りさっさと引き上げる。帰ったら布団を敷いてすぐ寝ちゃってもいいし、散歩したり、映画を観たり、音楽を聴いたり、マンガを読んだりするのも良しとしましょう。

陽な人間に比べると、陰な人間の生産性は明らかに落ちます。
テンション低くてつまらないヤツだな、と思われることもあるでしょう。
でも、焦って行動して悪意をばらまくような結果を生み出すよりはるかにマシ。
無理のきかない陰な人間に無理は禁物なのです。
あ、ちょっと書き疲れてきたので、そこらへんを散歩してきます……。
by jikkenkun2006 | 2014-01-13 10:12 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

内弁慶の主張。アウェイな街をホームにするために

こんばんは。大宮です。
週末コラムではなく年末コラムなので、今年の我が身を振り返ってみようと思います。

この5年間ほどは毎年のように転居をしていた僕にとって、今年は引っ越さずに済んだ穏やかな1年となりました。
腰を落ち着けたことで生まれた余裕で力を入れたのは、新たな地元である愛知県三河地方での人間関係作り。目標は、東京時代に慣れ親しんだ中央線沿線ぐらいの「ホームタウン感」を得ることです。

内弁慶な僕はアウェイだと委縮して内気になってしまいます。ホームであるはずの東京でも、浅草とか広尾など慣れない場所では前向きになれません。旅慣れた親しい人と一緒でない限りは旅行も楽しめません。

一方で、親しい友だちが住んでいたり好きな店があったりする街ではがぜん強気になります。表情や言葉遣いまで生き生きと変化するのが自分でもわかるのです。
ホームはいつでも滞在したがり、アウェイは避けたがる人間。これが内弁慶なのであります。行動範囲は狭くなりがちです。

しかし、僕たち内弁慶にもブレイクスルーが訪れます。昨年の僕のようにほぼ不可抗力の転居です。会社員の場合は就職や転勤がチャンスですね。
いま僕が住んでいる愛知県蒲郡市。みなさんは聞いたことありますか? 「がまごおり」と読めますか? 昨年までの僕は愛知県といえば名古屋市内だけで、三河地方は新幹線で通り過ぎるだけの地域でした。アウェイ中のアウェイです。

アウェイな街に住むなんて、内弁慶の僕には耐えられません。焦りは禁物ですが、自然な形で友だちや好きな店を作って「ホーム化」することが必要です。一人で植民地事業をするようなものですね。

10年前、中央線の西荻という街に移り住んだときは、『西荻丼』というフリーペーパーの制作に参加して、編集長という名のお世話係も経験することで友だちができました。そのうち何人かとは今でも親しい付き合いです。
今回の蒲郡でも、食品スーパー「サンヨネ」を勝手に宣伝するサークルを作って、仲間たちと楽しく活動しています。

アウェイな街をホーム化するためには、自分が好きな人たち(僕の場合は明るく優しい文化系な人々)が集まってくれそうなテーマを見つけて、主体的に行動することがポイントだと感じています。共通の遊びや取り組みがあれば、自己紹介の繰り返しではなく、同じ方向を見ながら少しずつ関係性を深めることができるからです。

気がついたら、蒲郡や豊橋(東三河の中核都市)がホームタウンになりつつあります。内弁慶の図々しさですね。
来年は関西地方で何か始められたらいいな。居を構えるのは無理でも不定期イベントならできる気がします。
10年後、東アジア各地に小さなホームタウンができていることが僕の夢です(いま思いつきました)。
by jikkenkun2006 | 2013-12-31 02:50 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)