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「誠意」と「作意」の人間関係

こんばんは。大宮です。
先日、銀座でホステスをしていた経験のある慶子さん(仮名)と食事をする機会がありました(ランチですけどね)。
ホステスとライターには「公私混同」という共通点があります。
仕事上の知り合いとプライベートに仲良くなったり、昔からの友人に仕事の協力をしてもらったり。
まあ、そういうグチャグチャな感じが好きなのでライターを続けているわけですけど、ときどき「俺にとって友だちって何? 利用できる知人にすぎないのでは?」と思い悩んで凹んでしまうのです。
で、慶子さんに聞いてみました。友だちって何ですかと。小学生みたいな質問ですね…。

「9割の誠意があれば、いいんじゃないかな」

しばらく考えた後、慶子さんはこんな答えを返してくれました。
ある人と一緒にいたい、何かしてあげたい、幸せになってほしいという気持ちが9割あればいいということですね。

「もし裏切られても、好きになったことを後悔しない。そう思える相手が『友だち』だと思う」

うーん。そこまで強い愛情を持てる相手って意外と少ないなあ。今まで友人だと思っていたアイツ、単なる知人なのかも…。

ただし、9割の誠意さえあれば1割は作意があってもかまわないという考え方は、ちょっと気楽になるなと感じます。
この人と一緒にいるといろいろ勉強になるなという作意、いつか仕事でお世話になるかもしれないという作意(慶子さんの場合はお客、僕の場合はインタビュー相手)、おいしい手料理を食べさせてくれるだろうという作意。

「役に立たない人とは付き合わない」と言うとすごく功利的に響いて自己嫌悪になってしまいます。でも、「役に立つ」と感じる内容は必ずしも金銭的な利益だけではありませんよね。精神的に高めてくれるという「役」もあります。
そうであれば、友人に対して「役に立ってくれて助かるなあ」という感情を持ってもいいような気がしてきます。前提に「9割の誠意」があるのだから。
まあ、何の役にも立たないアホな友人も多いんですけどね…。

逆に言えば、誠意よりも作意のほうが先立つような相手は、単なる知人、仕事仲間、お客さんだと割り切ってほどよい距離感で付き合えばいいんですね。たまたま同じ場にいたり、一時的に何らかのメリットがあるから今は付き合っているけれど、場やメリットがなくなったら自然と離れていく。できれば、朗らかな印象を残して。またいつか巡り合う日まで。
それはそれで後腐れがなくて爽やかな人間関係といえるのではないでしょうか。
by jikkenkun2006 | 2009-10-25 23:53 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

コンプレックス→エンターテイメント

こんばんは。大宮です。
ときどき会社員がうらやましくなります。
ボーナスの時期だけではありません。人事評価があるからです。
最近は、上司から一方的に査定されるだけでなく、まずは自己採点をして上司評価とすり合わせることが多いらしいですね。いいなあ。
今の自分がどの地点にいるのか、今後はどういうキャリアを築いてゆきたいのかを言葉にすると、明日からの働き方も微妙に変化してくるような気がします。明確で納得のいく目標には、それだけの力があると思います。人事評価、うらやましいなあ。

フリーランスの僕には上司はいないので、自主的に目標というか自分像を設定するしかありませんね。
この場を使って書いてみたいと思います。僕の上司になった気持ちで読んで下さいね。

最近、よく読んでいるWEB連載に「乗り移り人生相談」というコラムがあります。
プレイボーイ誌の元編集長が、深い親交があった作家たちの言葉を借りて、読者の人生相談にのるという内容です。キレイ事抜きの断言が多いので毎回楽しく読んでいます。
先日の記事では、筆者自らのどもり癖を告白しながら、「コンプレックスを武器に変えろ」という温かいメッセージがありました。

僕は人生相談というよりも仕事上のヒントがもらえたような気がしました。
そうだ、俺は「コンプレックス」をテーマにして企画・取材・執筆をしていけばいいのではないか、と。

2年ほど前、僕はこんな決断をしました(決断というほどのオオゴトではないのですが…)。
ビジネスノウハウなどの実用中心の記事ではなく、エンターテイメント重視の文章を書いていく、と決めたのです。
その影響で仕事量は減ってしまいましたが、迷いながらも少しずつ企画を立てたりして今に至ります。
ただし、貯金残高をにらみながら必死でやってきたので、「具体的にどんなエンターテイメントを目指すのか」を俯瞰して考えることはありませんでした。

今日、この文章を書きながらなんとなく見えました。僕が最も興味があるのは、自分と他者との関係なのです。特に、劣等感や優越感というあさましい感情になぜか面白みを感じてしまいます。
その感情に溺れるのではなく、言葉で表現することで、笑ったり泣いたりしながら昇華したいのだと思います。
だから、失敗話を素直に告白してくれる人が好きですし、自慢話をしちゃったことを後から恥ずかしがるような人と友だちになることが多いんですよね。

で、最近はコンプレックスを仕事のテーマにしていたことに改めて気づきました。

●結婚していないというコンプレックス→「ボク様卒業への道 ロスジェネ既婚男のつぶやき
●ロストジェネレーションだというコンプレックス→「バブルに学べ!遊ぶ力
●会社員(組織人)は務まらなかったというコンプレックス→「キリンビール工場長インタビュー

なんだかウジウジしてる記事ばっかりですね。でも、いいのです。自分が読んでいて面白いから。
「後ろ向きなことを言わずにポジティブに生きようぜ」なんて安易に語る元サッカー選手とは縁遠い世界でけっこうです(運動音痴だというコンプレックスもいずれ企画にしますね)。

個人として生きることが当たり前となり、家族を含む他者との関係を「自己責任」で決めなければならない現代社会では、己のコンプレックスに無自覚でありながら人間として高く生きることは難しいでしょう。
例えば、経済面でのコンプレックスをきちんと客観化できれば、収入だけにこだわらずに職業やライフスタイルの選択ができるはずです。

振り返ってみれば、僕は幼い頃からコンプレックスの塊でした。「なんであいつばっかりモテるんだ」とか「生まれ変わってキムタクになりたい」などとグジグジ思いながら生きてきました。
時間とエネルギーの無駄遣いだとばかり思っていたコンプレックスが、いま、仕事の「核」として燦然と輝き始めたのを感じています。

僕が抱えるコンプレックスを多くの人(読者)と共有し、「俺もお前も劣等感まみれの情けない人間だね」と慰め合い笑い合いながら、少しずつでも客観視して、最終的には一緒に救われようぜ、という壮大な目標なのです。なんだか宗教家みたいになってきたな…。まあ、いいや。とにかくがんばります!
by jikkenkun2006 | 2009-09-26 00:22 | 週末コラム | Trackback | Comments(4)

人は変われる? 変われない?

こんばんは。大宮です。
蒸し暑い日が続きますね。寝るときにはクーラーを消したい(エコではなく体のために)けれど、窓を全開にしてもムワッとした空気が流れ込んで来るだけ。ごくたまに涼しい風が入ってきたりすると、自然の恵みに激しく感謝します。でも、そもそもこんなに暑くしてるのもお前だろ、自然。いい加減にしろ!

ええっと、八つ当たりをしてごめんなさい。
こういう自己中心的な逆ギレ性格って、40歳ぐらいになったら直るのでしょうか。
先日、作家の中村うさぎさんにインタビューをした際、「人は変われるのか?」という話になりました。
記事にも書きましたが、中村さんの答えは「性格は変わらない。私は昔から短気で協調性がなかった。51年生きてきても変わらない」とのことでした。

自分を振り返ってみると、例えば「心配性のくせにスタートが遅い」という性格はずっと直りません。
仕事(かつては受験勉強)が一つでも残っていると、特に平日の日中とかはすごくグダグダしてしまうんです。
午前中から仕事場に行って2時間ほど集中すれば終わる仕事が残っているとします。9時ごろに目覚めても、「あー、原稿に向き合いたくねー。書けないかも。怖いよー」と思いながら布団をかぶり、二度寝します。で、ようやく目覚めると『笑っていいとも』とか『つばさ』(NHKの連続ドラマ小説)が始まっています。軽い自己嫌悪を感じながら、昼ご飯をお腹一杯食べるとまた少し眠くなります。ゴロゴロしていると2時過ぎです。あうー、と言いながら重い腰を上げて着替えて仕事場に行きますが、おやつを食べたり週刊誌『SPA!』を読み返したりしながらグダグダして、ようやく原稿書きに集中するのは4時すぎ。7時ごろに終わったときに僕の胸に去来するのは、「俺、今日まともに活動したのは3時間弱だけじゃん」という哀しみです。その他の時間は、仕事するでもなく遊ぶわけでもない、中途半端なモヤモヤタイム。そして自宅に帰ると、今度は風呂にすぐ入るか否かで1時間以上ウダウダします。仕事も風呂も浸かってみると気持ちよかったりするんですけど、始めるのが億劫なんですよ……。

という性格も、死ぬまで直らないんですか?
嫌だなあ。人生の貴重な時間を大量に浪費している気がします。
ああ、けじめのあるエネルギッシュな人間に生まれ変わりたい!

ただし、中村さんの話には続きがありました(記事には書きませんでしたけど)。
「性格は変わらないけれど、価値観とか世界観は変わる。そういうものは『●●はこうでなくちゃ』という思い込みにすぎないことが多いから。普通に暮らしていても、思いもよらない妙な人に出会うことってあるよね。その人なりに生きていることがわかると、自分がこだわっていた価値観も相対的に見えて、『こうでなくちゃいけない』なんていう生活スタイルはないんだな、と気づいたりする。そういう意味では、私は若い頃からずいぶん変わったよ」

うーん、確かにそうですよね。
子どもは「一姫二太郎」が理想、女には母性愛がある、夫婦は一生添い遂げるべき、体育会系は無神経なアホ、男なら1000万円プレーヤーを目指せ、会社員より自営業者のほうがカッコいい、田舎は温かくて都会は寂しい、宗教は古臭くて怖い、六本木には拝金主義者、永田町と霞ヶ関には権力主義者ばかり……。すべて僕の勝手な思い込みです。
こういう「価値観」らしきもので自分を固めていれば、「こだわりを持った一筋縄ではいかない男」を演じられるし、苦手な人を避けて生きられるので楽なのですが、だんだんと自分の世界を狭めて息苦しくなってきます。

苦手な人とも面と向かう心構えがあれば、中村さんの言うように価値観や世界観は伸びやかに変わっていく予感がします。
もっともっといろんな人に会いに行こう。率直な気持ちをぶつけて相手の話も聞く対話の中から、時代と自分に必要な新しい価値観を見つけていこう。
こんなことを相変わらずのグダグダ性格で考えております。
by jikkenkun2006 | 2009-08-16 23:02 | 週末コラム | Trackback(1) | Comments(7)

真面目な不良、不真面目な不良

こんばんは。大宮です。
先日、久しぶりに「すごく苦手なタイプの不真面目男」に出会ってしまいました。
このままで若き日のダースベーダーみたいに暗黒面に墜ちそうなので、この場で発散させてくださいね。
ただでさえジメジメした週末なのにすみません。気分が優れない方は読まないでください。

その男性は、早稲田大学商学部在籍中の自称「元ヤンキー」です。
とにかく声がでかくて、学歴話(商学部は政経学部にかなわない、とか)もしくは武勇伝(授業をサボりすぎて留年しそう、とか)ばかり話して、他人の話はあまり聞かず(この点は僕と似ている)、アウトローを気取っている割にはちゃっかり大企業への就職を狙っています。
偏差値上位大学の体育会に多いタイプの豪快くん。酒席ではさらに声がでかくなり、すぐに「一気」を始めます。
5年後には、電通か伊藤忠かアサヒビールあたりで営業マンとして働いていて、「俺たちは知的体育会系(by楽天の三木谷氏)だから!」みたいなセリフを吐くんだろうな…。
暑苦しい。本当に暑苦しいよ。
そういうバカ騒ぎ&武勇伝は、どこかのキャバクラでやってくれよ。同類どもと一緒に!!

……すみません。
10歳も年下の相手になんでこんなに嫌悪感が出てくるのでしょうか。
中学・高校時代に味わった「スポーツができるチョイ不良が女子にモテモテ」な状況がトラウマになっているのかもしれません。

でも、決してそれだけが理由ではありません。
彼らの「中途半端な不真面目さ」と「こズルさ」が嫌なのです。
出版業界でも、「昔はけっこうワルだった」とか「暴走族の構成員だった」みたいな不良自慢をするアホがたまにいますが、そういう人に言いたい。暴れるなら、いま暴れてみろと。

世間体や権力に「否」を唱えるのが不良の定義であるならば、ぬくぬくと日和見会社員をやりながら無難な仕事をこなしているお前に、不良を名乗る資格はない。中途半端なヤローめ! 上司から徹底的に嫌われるような斬新な企画を出して実行してみろ!
ツルんでいじめることしか能がないバカ中学生と同じように、場の空気を読んで、常に安全圏に身を置きながら相対的弱者を貶めることしかできないお前。で、ちゃっかり出世していく。こズルさだけで世渡っていく人生。どんなに経済的に成功しても無意味なんだよ!

僕の友人に、10年間近く司法試験(ロースクールではなく旧司法試験です)を受験し続け、昨年ようやく合格した男がいます。刑事弁護を専門にしたいという志を立て、髪の毛が抜け落ちて言語障害になりかけるまで孤独な勉強を続けた男です。
世間的に見れば、明らかに「やめたほうがいい」「経済的に報われない道」ですよね。
でも、彼は苦悩しながらも志を曲げず、自分の道を貫こうとしていています。
来年からの弁護士活動でも、不器用ながらも不屈の闘志で世間や検察権力と向き合っていくことでしょう。
こういう真面目すぎる人間こそが、本当にカッコイイ「不良」と言えるのではないでしょうか。

群れることしか知らない不真面目な不良はおそらく永遠に苦手です。
真面目さを貫く孤高の不良と、たまには飲み交わしたいと思います。
by jikkenkun2006 | 2009-07-24 18:43 | 週末コラム | Trackback | Comments(6)

離れるのではなく、広げていく

おはようございます。大宮です。
次の週末に、6年間住んだ西荻窪から引っ越すことになりました。
中央線を遡り、四ツ谷に居を移します。
といっても、中央線の駅からは徒歩20分もかかるのですが…。
事務所は変わらずに西荻なので、45分ほどかけて通勤する予定です。
定期を買うなんて7年以上ぶりなので、興奮しています。

なぜ四ツ谷なのかは来週にでも書くとして(大した理由はありませんが)、「引越」についての感想を言葉にしてみたいなと思います。

僕は、自他ともに認める「内弁慶」です。
自分がホームだと感じる場所や状況では、傲慢なほど自信満々になり、お節介くんになるのです。
地元での食事会、気の合う仕事仲間との飲み会、僕が主催する同窓会や合コン…。
しかし、アウェイだと感じてしまうと、臆病で神経質で不機嫌な男に変身します。
六本木での結婚式二次会、旅先での夜遊び、広告や金融好きな人たちとの飲み会、などなど。ちょっとでも寂しい想いをすると、「もう帰りたい。西荻に帰りたい」オーラが全身から出てしまいます。

幼い頃、2歳年上の兄貴にずっとくっついて遊んでいた(リアルに「金魚の糞」と呼ばれていました)のと、生来の自意識過剰がミックスされて、この「内弁慶」性格が形成されたので根本的な改善は不可能です。
見知らぬ土地や人間に好奇心を燃やせる人に出会うと、やたらにうらやましくなります。生まれ変わったら、性格を交換しない?

しかし、この人生は、内弁慶性格と折り合いをつけながら、なんとか楽しく過ごすしかありません。
どうすればいいのでしょうか。

「西東京ひきこもり」を自認する僕でも、飛び地のように安心できる場所はあります。
気の合う友人や親戚が住んでいる街です。
京都、名古屋、宇都宮、岡山、大分、仙台、岩国、横浜、大宮などなど。
もし「迷子」になっても助けてもらえるという甘えがあるのかもしれません。
まだ行ったことはなくても、親切な友人・知人がいる街は、地図上で灯台のように光って見えるから不思議です。
秋田、松山、バンコク、シンガポール、クエート、オクスフォード……。
遠出が不得意な僕ですが、こういう街ならいつか訪れてみたいです。

東京の中でも、一度は住んだことがあったり、母校があったり、肉親・友人がいたり、大好きな店があったりする場所は、とりわけ嬉しい安全地帯として体が認識しています。
東村山、小平、国分寺、国立、武蔵境、三鷹、吉祥寺、西荻窪、高円寺、阿佐ヶ谷、中野、東中野、大久保、新宿、御茶ノ水、神田(中央線沿線ばかりですね…)、奥多摩、飯田橋、市ヶ谷、神保町、下北沢、表参道、渋谷、池袋、大塚、目黒、椎名町、広尾、八幡山、浅草、浅草橋、代々木上原、向ヶ丘遊園、町田、などです。

その中でも、フリーランスになりたての僕を受け入れてくれた、小さくてかわいい街、西荻窪は特別な場所です。
一生付き合える友人宅や通い続けたい名店があるから、だけではありません。
『西荻丼』というタウンペーパー作りのボランティア活動を通して、「共同体」に参加してきたからです。
住むだけ働くだけ消費するだけの街ではなく、共同体の一員として関わる街。発行部数5千部というささやかな貢献ですが、僕にとっては初めての体験でした。
世界にはもっとキレイで便利な街はたくさんあると思いますが、僕にとっては西荻は唯一の存在になりました。

サン・テグジュペリの『星の王子様』(内藤濯訳、岩波少年文庫)にわかりやすい例が載っていますね。
小さな星を出て地球にやってきた王子様は、咲き乱れるバラの花たちの前で、星に残してきてしまった一輪のバラについて語ります。

「あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスをかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたらないようにしてやったんだからね。ケムシを――二つ、三つはチョウになるように殺さずにおいたけど――殺してやった花なんだからね。不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。ぼくのものになった花なんだからね」

一輪のバラへの愛情に気づいた王子様は、師匠役のキツネから教えを受けます。

「人間っていうものは、このたいせつなことを忘れているんだよ。だけど、あんたはこのことを忘れちゃいけない。めんどうをみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね……」

住所は移しますが、「自分のものになった」西荻という街を僕は忘れません。
これからも『西荻丼』などの活動に関わっていくつもりです。
そして、新しく住む四ツ谷(どんな街なんだろう…)でも、機会を見つけて街づくりに参加したいと思っています。

離れるのではなく、広げていく。
こんな気持ちで引越や旅行をし、少しずつ友人・知人を増やしていけば、内弁慶の「内」の範囲が大きくなっていくはずです。
気がついたら、「西東京ひきこもり」ではなく「地球ひきこもり」になっていて、「火星までならいいけれど、地球からあんまり遠い星に行くのは寂しいよ」なんて言っているかもしれませんね。
by jikkenkun2006 | 2009-06-21 09:37 | 週末コラム | Trackback | Comments(7)

海外旅行3種の神器~体力、英語、運転~

おはようございます。大宮です。
先週、弟とポルトガル旅行をして来ました。
楽しかったのですが、暑さと疲れで体調を崩してしまい、帰国してからも一週間近く「休暇」が続いてしまいました。
ようやく回復したので、反省点を書いておこうと思います。
それは3つあります。体力、英語、車の運転、です。

まずは体力。
息を切らしたり重かったりするのが嫌いな僕は、普段はほとんど運動していません。
たまに散歩するぐらいです。

しかし、今回の旅行で「体力がないと損をする」ことを痛感しました。
というか、疲れたり体調を崩したりすると、あらゆる知的好奇心を失ってしまいますね。
主目的だった教会巡りも途中からどうでもよくなり、「早くカフェに入ってビール飲みたい」モードになりました。大味かつオリーブオイルたっぷりのポルトガル料理も敬遠して、日本料理店で鉄火丼を食べたりしました。
何のための旅行だかわからないですよね…。

運動を楽しむことができないのなら、短時間に効率よく体力をつける方法を考えなければなりません。
聞くところによると、水泳がいいみたいですね。
来月からプールに通おうかと思っています。

二番目は英語。
学生時代まではTOEICを受けたりしていたのですが、社会人になって出版というドメスティック規制産業に入ったことに甘んじて、英語から完全に離れていました。
気がつくと、「トゥモロー」すら正確に綴れなくなっていました(mとr、どっちを重ねるんだっけ?)。

僕は、日本にいるのに堂々と早口で英語で話しかけてくる英語圏の人々が嫌いです。
そういう無神経かつ傲慢な連中を、「ネイティブくそ野郎」(お笑い芸人の有吉を真似て)と密かに呼んでいます。
というわけで、今回の旅行前にポルトガル語を学ぼうと思い、参考書を2冊も買ったのですが、1ヶ月ほどで挫折してしまいました。

でも、ポルトガル人(ヨーロッパ人全般?)はおばあちゃんおじいちゃん以外はかなり英語が上手なんですね。
旅慣れている弟によると、「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」ぐらいは現地語で話しかけて、謙虚な態度で「English OK?」と尋ねれば問題ないとのこと。
僕も途中から真似したのですが、「English OK?」と聞いた僕のほうが相手より圧倒的に英語が下手なケースが多く、かなり不便で恥ずかしい思いをしました。

さらに、途中から旅に合流してくれた韓国人のジンソー君との共通語も英語でした。
素朴でいい奴だし、お互いの仕事も似ている(ジンソー君は新聞記者)ので、いっぱいおしゃべりしたかったのですが、彼の言っていることの7割ほどしか聞き取れず、自分が言いたいことは半分も表現できませんでした。

英語学習そのものは好きじゃないし、英語が世界共通語だと思っているネイティブどもは癪に障りますが、意思疎通のツールだと割り切って勉強を10年ぶりに再開しています。
とりあえずはNHKラジオのビジネス英語を一日15分聴いているぐらいですが、自分が興味がある分野の英文書籍にも挑戦してみようかと思っています。

三番目は車の運転です。
ポルトガルは暑くて坂が多くて、いくら散歩好きな僕でも歩いてばかりは辛かったです。
また、日本でも同じですけれど、電車やバスが通っていない場所は、車がない限り永遠に「未知の世界」ですよね。

旅行中、テージョ川を挟んでリスボンの対岸に渡り、「クリスト・レイ」という巨大キリスト像を見に行ったんです。帰りに迷って、変な山道を下って、人がほとんどいない川辺に出てしまいました。
いまから考えるとちょっと趣のある川辺だったのですが、僕たちは「あの道を登り直さなければならないのかよ」とウンザリして、景色を楽しむ余裕はありませんでした。
でも、近くにいたポルトガル人カップル(太めなオヤジが超美人なお姉さんを連れていました…)は、車があるのでゆったりと写真を撮ったりしています。
運転さえできれば、彼らの車を強奪してリスボンに戻りたかったです。ホントに。

というわけで、国内での運転に少しずつ慣れるようにして、次回は旅先をレンタカーで移動できるようになりたいです。

運動、英語学習、車の運転。
いままではどれからも距離をおいていましたが、今回の旅行で必要性と有用性を痛感しました。
東京でモジモジしていたら絶対感じなかったと思います。
それだけでも、旅の成果と言えるかもしれません。
by jikkenkun2006 | 2009-06-13 09:48 | 週末コラム | Trackback | Comments(7)

「モテたい」心の本質とは

 こんばんは。大宮です。
 みなさん、GWをいかがお過ごしでしょうか。僕は自宅にひきこもって「モテ」についてモジモジ考えたりしています。

 先日、学生時代の先輩が素晴らしい本を貸してくれました。その名も『モテたくて…』(光栄)。週刊『SPA!』の名物コーナー「バカはサイレンで泣く」などで活躍している天久聖一と椎名基樹が、ひたすら「理想のモテ」について考察(妄想)しています。最高だよ。絶版なのは惜しすぎる!

 同書に収められている「俺トピア」という連作マンガは、黄色い野球帽をかぶったヘンな男(おそらく著者そのもの)が、何もしていないのに、多数の水着美女にモテまくるという非常に都合がいい内容。くだらなすぎるのですが、僕が抱いているモテの理想像を端的に表現していて、びっくりしました。

 興奮して、昨夜一緒に飲んだ仕事仲間(女性)に感動を伝えると、激しいツッコミを入れられてしまいました。

「内面ではなく表面だけがキレイな女性が不特定多数寄ってくるのが嬉しいって、女性を人間扱いしてない証拠じゃないですか? 髪の毛がサラサラな美男子なら別ですが、大宮さんのような人が目指すべきモテって違うでしょ。文章の面白さとか性格の素直さとかでなら、女性に好かれる可能性はあると思います。でも、それって内面でモテているということですよね。なのに、大宮さんが女性の内面を見ないのは矛盾だと思いませんか!」

 飲みながらのバカ話なのに、ここまで論理的に攻められるってすごくないですか? 僕はうつむいて、何も言えなくなってしまいました。

 反論はできませんが、説明を試みたいと思います。

 まずは、「モテ」と「友情や愛情」とは異なる概念であると主張したいのです。友情や愛情は主観的な内面の交流であるのに対して、モテとは「何も努力しないのに美女たちに囲まれているうらやましい男がいるぞ! あれ?もしかして俺?」という第三者の視点での発見です。
 源流を辿ると、中校生時代に「イケメンで笑顔が自然なサッカー部エース」が学年の女性人気をほぼ独り占めしていたというトラウマがあります。なぜ、俺ではなくて山本なのか。一週間でいいから山本になってみたい…。

 もう一つ言いたいのは、「状況次第で天使にも悪魔にもなれる内面よりも、揺るぎない価値としての外見で評価されたい」という願望です。この点については、内田樹が卓抜した見解を披露しているので、引用したいと思います。

<私は若かりし頃、ある女性に「ウチダくんて性格最悪だけど、顔が好き」と言われたときにそのまま昏倒しそうになったことがある。
 この女性はあるとき私のTシャツ姿をしみじみ見ながら「私、ウチダくんの三段腹が好き」と言ったこともある。
 オトコゴコロのかんどころを押さえた端倪すべからざる女性であったと言わねばならない。「いい人だけど顔はイマイチ」と言われるのと「ワルモノだけどいい男」と言われるのと、男たちはどちらを選ぶか。
 答えは明らかである。
 というわけで、配偶者をお求めの女性諸君には、標的とされた男性については、まず「隠れたる才能を評価し」、ついで「ルックスを称える」という二段構えで攻撃した場合、きわめて高い確率で所期の成果を挙げうるということをご教示しておきたい。
(中略)
 男が待望しているのは、「それが備わっているのかどうか、ちょっとだけ自信がない」美質についての「保証」のひとことだけなのである。>
(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文藝春秋)

 つまり、ルックスの良い女性から求められたいという気持ち(=モテ願望)は、己れのルックスへの自信のなさの表れであると言えます。

 貧弱な羽根しか持てなかったオス孔雀が、豪華絢爛な羽根でメス孔雀を独占する仲間に嫉妬し、憧れ、「クェー!」と甲高く鳴く。その悲痛な声こそ、「モテたい」心の本質であります。あまり舌鋒鋭くいじめないで下さいね…。
by jikkenkun2006 | 2009-05-03 23:58 | 週末コラム | Trackback | Comments(4)

先生!~読書伝聞帳(5)『弟子』~

f0084436_2192199.jpgこんばんは。大宮です。
新卒で入った会社を1年で辞め、次の会社は10ヶ月で辞め、02年3月からフリーランスで働いてきました。もう7年も経つのか……。
成功も失敗も自分に帰することができるこの働き方、神経質な僕には合っていると思います。

でも、ときどき会社員というか組織人がうらやましくなることがあります。
収入や身分が安定しているからではありません。
「先生」と呼べる立派な先達と一緒に働けているからです。

尊敬できない先輩ばかりに囲まれている職場もあると思いますが、ちゃんとした組織には「人が人を育てる」風土と制度が定着しているはずです。
工場などの現場では特にそうだと思います。

僕にも尊敬できる業界の先輩はいますが、組織における先輩とは関係性が違います。
チームで働くことはあっても、それぞれが独立したプロであり、師弟関係はありません。
たまに勘違いオジサンが説教してくることもありますが、そういう人に限って実力はないんですよね。
本当にすごい人は威張らないし、淡々としています。「今後もお互いがんばろうよ。じゃ!」みたいな。

では、僕が憧れる師弟関係とは何なのでしょうか。
単に業務スキルを教えてもらうだけ、ではない気がします。

中島敦の短編『弟子』(新潮文庫『李陵・山月記』所収)は、孔子の弟子である子路が主人公の物語です。
実務能力は高いけど純情すぎる男、子路。著名な孔子にケンカを売りに行ったら、その「すごさ」を目の当たりにし、心酔してその場で弟子になっちゃうという愛すべき人間です。

<後年の孔子の長い放浪の艱苦を通じて、子路程欣然として従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途を求めようとするのでもなく、又、滑稽なことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまで渝(かわ)らなかった・極端に求むるところの無い・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引き留めたのである。嘗(かつ)て長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。>

すごいな、と心底思った人の傍にできるだけいること。
それが本当の師弟関係だというのでしょうか。
出世のためでも自分磨きのためでもないとしたら、何のために?

<如何なる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措の意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命に就いての自覚が少ない。朴直子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、却って孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。>

僕たちは何のために働くのか、よい仕事とはどういうものなのか。
一人で悶々と悩んでも、ノウハウ本にすがっても、なかなか答えは出ません。
かといって、疑問を放棄して「稼ぐが勝ち」と思ったら、人生を見失ってしまいそうです。
敬愛する先生の傍に居続ければ、いつか「判る」のでしょうか。

この人と付き合っていても、お金にはならない、スキルも向上しない。でも、何か大切なものが少しずつわかってくる予感がする……。
そんな感覚が得られる人を「先生」と呼ぶのであれば、組織人でない僕にも先生はすでに数人いる気がします。
できるだけ頻繁に先生のもとへご機嫌伺いに行こう。
by jikkenkun2006 | 2009-04-11 02:10 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

「自分」=「日本国民」だけでいいのか

こんばんは。大宮です。
野球というかスポーツ全般に興味がない僕ですが、WBCでの日本優勝を伝えるニュース記事は熟読してしまいました。なんだかいい気分です。「侍ジャパン」の一員になったつもりなんです。
実際は、僕自身はほんの少しも試合に貢献していないのに。

地域共同体が崩れ、企業という共同体も信じられなくなりつつあるいま、僕たちは何にアイデンティティを重ね合わせていけばよいのでしょうか。

親しい人間関係? 確かに、気のおけない友達とワイワイ楽しくやっている時間は、寂しさを感じることはありません。自分の存在を強固なものと感じることができます。
でも、友達ってちょっとしたことで失ってしまうものですよね。
僕は、学生時代の友人と久しぶりに会ったらすごく傲慢な奴になっていた(と勝手に感じた)だけで、携帯のアドレス帳から彼を削除したことがあります。逆に、僕も「友達」から消されることもあるでしょう。
また新しい友達を作ればいいという考え方もありますが、僕はそういう流動的なものにアイデンティティを置くことはできません。

現在、「婚活」ブームなのも、不安定な時代に確かなものを求める動きなのかもしれません。
いついなくなってもおかしくない友達や恋人ではなく、「一生連れ添う」ことを前提にした人間関係がほしい、と。
しかし、これだけ離婚が一般的になると、結婚や家族さえも不確かなものだと感じてしまいます。

地域共同体や企業も同じですが、構成員の流動性がある程度まで高まると、アイデンティティを与える機能を失ってしまうような気がします。引越や転職や離婚はサッパリするかもしれませんが、縛られない自由の奥底には「縛ってもらえない寂しさ」が潜んでいるのではないでしょうか。

かといって、僕には「オレはオレだ」と孤独に生きていく強さもありません。
自分単体ではアイデンティティを保てない弱い人間なのです。
自分の力を超えた、何かゆるぎない拠り所やつながりがほしい。

神様? いや、今さら信仰を持てる気はしません。
行き着くところはやはり「国家」なのでしょうか。
僕は海外に住んだことがないので実感はないのですが、留学や駐在経験のある人は、「日本の良さがすごくわかった」とか「日本の将来について真剣に考えるようになった」と言いますよね。
現在の国際政治の枠組みでは、日本国民であることで僕は多くの恩恵を得ています。内戦とかをやっている国に生まれなくて本当によかったです。

いま、ナショナリズムが世界的に高まっているそうです。
自分自身を冷静に振り返っても、「日本国民」であることにアイデンティティを感じつつあります。
自分と国家を直結させると、けっこう気分が楽になりますよね。

それでも、違和感は残ります。
日本国家から恩恵を受けているのは確かだけれど、そんなことを言ったら地球全体からだって生かされているわけだし……。
もうちょっと辛抱して、ちゃんと考えてみようと思います。安易なナショナリズムで自分を誤魔化したくはありません。

ここまで書いていたら、ソウルで会食をした弟の友人・ジンソくんを思い出しました。
実直で照れ屋で知的なジンソくん。兵役や仕事で悩んだりしていたな。ベロベロに酔っ払いながらも僕たちをホテルまで送り届けてくれたな。すごくいいやつだった。

見ず知らずの金持ち野球選手なんかより、友達想いのジンソくんと「つながっている」と信じたい。
by jikkenkun2006 | 2009-03-27 23:13 | 週末コラム | Trackback | Comments(3)

神なき国に生まれて~読書伝聞帳(4)『青い空』~

f0084436_22101100.jpgこんばんは。大宮です。
映画『おくりびと』がアカデミー外国語部門賞を受賞しましたね。
吉本ばななや村上春樹も含めて、いま日本が誇れる文化資産の一つは「死」にまつわる作品なのではないでしょうか。

「神」への信仰が強い国であれば、これほど死に対する関心と思考が深まらない気がします。疑問の余地がないですからね。
では、なぜ日本は宗教心の薄い国になったのか。
海老沢泰久の長編小説『青い空』(文春文庫)は、この壮大なテーマに真正面から取り組んでいます。

江戸時代末期、キリシタンの末裔である主人公・宇源太は、出生地の小藩とその手先である仏寺から陰湿な差別を受け続けます。幕府と仏教勢力は、百姓と町民を強制的に檀家にさせて監視・徴税する寺請制度によって、持ちつ持たれつの関係を保ってきたのです。制度の名目はキリシタンを根絶やしにすること。法によって、キリシタンの子孫は五世代までは「類族」として差別的扱いを受けることになっていました。

その理不尽さに抗った宇源太は故郷を抜け出し、江戸で幕末の動乱に巻き込まれます。明治維新後、ようやく仏寺の横暴が是正され、キリスト教への弾圧がなくなるかと思いきや、仏教に替わって神道が国教化されただけで、坊主が神主に「転職」するという愚行がまかり通ります。そして、キリスト教徒は相変わらず弾圧される……。

心情的には神道に親しみを覚えるという著者ですが、天皇を政治利用した明治政府を批判して、宇源太の剣の師匠と勝海舟にこんな会話をさせています。

<「仏教を、宗教ではなく、葬式をするだけのものにしてしまったのは徳川の幕府だが、ここで天子のご迷惑も考えずに、神道まで政治に利用したら、日本はいよいよ神を信じない人間ばかりの国になってしまうよ」
「そういわれるとおれも耳が痛いが、そうなるだろうね。懲罰をもって押しつければ、表面上はしたがうだろうが、心は離れていくものだ」
「宗教というのは最高の道徳だ。それがない国になってしまう」>


人知を超えた「神」に恐れを抱き、その視線(=倫理)を意識しながら自分で判断して行動すること。その大切さを強調する著者はまた、勝海舟にこんなセリフを言わせています。

<「心の中に神を持つというのは大事なことだ。日本人というのは、有史以来、神というものを持ったことがないから、上の者の命令でばかり動いている。公儀もそうだ。だから、上の者が能なしばかりになったら、このありさまさ。(後略)」>

挙句の果てに、昭和に入って無謀な戦争に突入した日本。天皇を「現人神」にしてしまったが故に、その政治の誤りを誰も指摘できず、また誰も責任を取らずに済まされてしまう。現代政治にも続くこの無責任体質の根源は、本来の意味での「宗教心」のなさだと著者は喝破しています。

人口増加と経済成長によって「生」にスポットライトが当てられているうちは、深く考えなくてもよかったのでしょう。イケイケドンドンと酔っ払っているような状態ですからね。しかし、人口減少と経済衰退が明らかになり、国としてシラフになったいま、ひとり一人の責任で「死」と向き合わなくてはなりません。そのとき僕たちは、頼るべき神の不在に愕然とし、迷い苦しむ過程で、宗教を含む救いの文化を生み出していくのです。

<「どうして、寺はこうやって人間を苦しめることばかりするんだろう。あの二人だって、三光院にさえ行かなければ、こんなことにはならなかった」
「寺なんかに頼るからよ。頼るやつがバカなんだ」
「そうかな。おれは、そうは思わない」
宇源太はいった。
分ったのである。
「人間は弱いものだ。何かに頼らなくちゃ生きていけない。文五郎さんがそうだ。でも、文五郎さんには、頼るものがないんだ。問題は寺じゃない。そのことなんだ」>

by jikkenkun2006 | 2009-03-13 22:03 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)