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「共感」だけを求める都知事と僕

こんばんは。大宮です。
昼時のワイドショーで、テリー伊藤が石原都知事にインタビューをしていました。
中川前財務大臣、オバマ大統領、朝青龍、次期オリンピック、といった旬のテーマに対して、「あいつは嫌いだね」「みんなでお祭りをやろうよ」など、小気味良いコメントをしつつ、ときどき可愛らしい笑顔を見せる都知事。
よくぞ断言してくれた!と気持ちよくなる発言も多く、「こんなおじさんと呑んだら楽しいかもな」と感じました。

しかし、相変わらず論理や説得力はまったく感じません。
例えば、なぜ東京で二度目のオリンピックを開催する必要があるのでしょうか。
都税を納めている身としては、わかりやすく論理的に説明してほしいのです。
都知事という巨大な権力を持つ立場で、「愛国心が盛り上がるからオリンピックはいいよね」とか「朝青龍はなんとなく好きになれない。相撲が変わってしまう気がする」などと感情先行で発言しているのでびっくりします。

政治家は、心の深いところでは感情に根ざした人間性が必要だとしても、発言や行動をする際は論理と説得が不可欠でしょう。
それを怠り、優れた共感力だけを武器に他人に強制力を行使しようとするのは、民主主義社会では許されません。
政治家としての石原氏は、生まれる時代か国を間違えたのかもしれませんね。

逆に、作家としての石原氏にはとても興味があります。
著作を読んだことがないのですが、あれだけの共感力の持ち主の作品なので、文章を書く際に大いに参考になるはずです。いや、仕事抜きにしても純粋に楽しめる気がします。

では僕は論理的で説得力があるのかというと、まったくそんなことはありません。
正直、石原都知事レベルだと自覚しています。
自覚しているからこそ、政治家や法律家や医者といった、他人の心身に強制的な力を使うような職業に就くつもりはありません。
もしも裁判官とかに就任したら、「証拠はないけど顔が気に入らないから無期懲役」などと言いかねませんよ。どうか僕を裁判員に選ばないでほしいです。

細かく言えば、商業記事にも論理重視と共感重視の差があります。
事件記事や社会・経済評論といった分野は、正確な情報収集と論理的な分析が求められますよね。
僕はライターになってしばらくはこの分野でがんばろうとしていたのですが、情熱を持てないし能力的にも限界があることに2年前に気づきました。

で、最近は、できるだけエンターテイメント文章だけを書くようにしています。
珍奇な食べ物を口にして悲鳴を上げたり、未婚男同士で愚痴をこぼし合ったり、大好きな本や映画を紹介したり……。
論理性のかけらもないけれどいいんです。
僕は「説得」したいのではなく「共感」してほしいのですから。
「どうしようもないねぇ」と落語感覚で笑ってくれれば本望です。

石原さん、東京オリンピックはどう考えても無理ですよ。
東京都民もオリンピック委員会も、明快な論理抜きで押し切られるほど馬鹿ではないでしょう。
不似合いな政治家業はそろそろあきらめて、共感だけでいい世界に戻って来ませんか。
by jikkenkun2006 | 2009-02-22 23:58 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

「新しい出会い」なんて必要ない

こんばんは。大宮です。
「新しい出会いがないんです。大宮さんは仕事でいろんな人に会えていいですね!」
メディア関係の職業ではない知り合いから、こんな風にうらやましがられることがあります。
どうでもいい相手の場合は、「でしょ。こないだ加藤鷹さんにインタビューして、秘儀を伝授されてさ…」とか「企業の広報担当者はやたらに美人が多いんですよ。ムフフ」などと自慢して、適当にその場を盛り上げます。

僕以外にも、「いま俺、タモさん(タモリ)と仕事してるから」みたいなことを言いたがる業界人って多いですよね。特に、広告代理店とテレビ局に。
他人がやっているのを見ると本当に恥ずかしいです。道連れにして東京湾に飛び込みたくなります。

でも、ちゃんと向き合いたい友人の場合は、正直に答えますよ。
「仕事が終わっても個人的に付き合いが続いている人なんてほとんどいない。それでも『出会い』と言うなら、高級レストランの店員のほうがはるかに多くの有名人と出会ってるよ」

一緒に記事を作った編集者やカメラマンなどとは親しくなることもたまにありますが、それって普通の職場でも同じことですよね。地味な付き合いですよ。
その他の友人は、学生時代の同期とかボランティアサークルの仲間といった「仕事外」での出会いがほとんどです。

「出会いがない」と嘆いているだけの人は、出会いがあるないの問題ではなく、足元の出会いを維持・発展させる努力を怠っている気がします。
友情だってメンテナンスは必要なんです。
転職した元同僚と久しぶりに飲んでみるとか、卒業校のプチ同窓会を自分で開催してみるとか、いくらでもやりようはあります。
ていうか、目の前にいる俺だって「出会い」の延長にある人間関係なんだから、一緒にいる時間をもっと嬉しそうに過ごしてくれたら、ホームパーティーぐらいは企画してあげるのに……。

常に「新しい出会い」を求めているうちは、本当に親密で発展的な人間関係は築けないのではないでしょうか。
少なくとも僕は、「古い出会い」を大切にしている人に強い魅力を感じます。
by jikkenkun2006 | 2009-02-01 23:58 | 週末コラム | Trackback | Comments(4)

「愛されるより愛するほうが幸せ」なのか?

こんばんは。大宮です。
さきほどNHKでやっていた『爆笑オンエアバトル保存版』を観ましたか?
アンタッチャブル山崎のボケは天才的ですよね…。
文字通り腹がよじれるほど笑いました。

さて、大晦日ですので「週末コラム」ではなく「年末コラム」を書かせてください。
ある映画に「愛されるより愛するほうが幸せ」というセリフが出てきます。
そのセリフを聞いたわがままな主人公はたじろぎ人を愛することの幸せに目覚める、という内容だったと記憶しています。

僕自身は、「愛されるより愛するほうが幸せ」をすでに実行しています。
いや、「追われるより追うほうが幸せ」と言うべきでしょうか。
過去10年間で本気で好きになった女性は、総じて「僕のことに興味があるのかないのかよくわからない。おそらく、興味ない」という人ばかりでした。なぜかB型の年上が多いという共通点もあります…。で、最長でも1年間しか付き合いは続きませんでした。
楽しかったけれど安定的な「幸せ」とは程遠い状況ですよね。

なぜ追いかける(愛する)ことばかりに興奮して、追いかけられる(愛される)と逃げたくなってしまうのか。
きちんと己に向き合えば、答えは一つしかありません。
自信がないからです。

恋愛の駆け引きなどの努力もしないうちに、ありのままの自分を受け入れて好きになってくれる人を、僕は心の底で軽蔑してしまうのです。「こんなオレをすぐに愛せるわけがない。よほどモテなくて男に飢えている女なんだろう」などと。最低ですね…。
逆に、あまり僕に関心がなさそうなミステリアス美女が、僕の話にたまたま笑ってくれたりすると一発で夢中になります。無茶苦茶盛り上がって、振り向かせようと努力しまくり、ついに燃え尽きてしまう。
その繰り返しでした。

先日、学生時代からの親友であるMさんに会いました。
Mさんは、勤務先の大手シンクタンクで社内表彰されるほど優秀な経営コンサルタントでありながら、常に自分の力を他者のために使う姿勢を持ち続けている、賢くて優しい女性です。近い将来、政治家になってください。ホントに。

Mさんとランチをしながらお互いの1年を振り返った後、話題は僕の女性関係になりました。
今年結婚したMさんですが、地方勤務の夫とは「愛情のある別居婚」を続けており、「とりあえず結婚してみたら」的なありきたりの説教はしません。友情を込めて、僕にアドバイスをしてくれました。

「トウヨウ(←僕の名前です)は玉虫色だからね。どんな相手にでも合わせられちゃうでしょ。それは、つかみどころのない強烈な個性なのよ。そんな人とは友達にはなれても恋愛は続かないという女性が多いんじゃないかな。トウヨウが好きになった人ではなくて、トウヨウのことをずっと好きでいてくれる人と付き合うほうがいいと思うよ」

つまり、僕のことを自然に「いいな」と思ってくれる奇特な女性がいて、僕も「かわいいな」と素直に感じたら、あれこれ余計なことを考えずに行動しなさい、ということですね。
当たり前だけれど、10年来の親友に言われると胸に重く響きます…。

「愛されるより愛するほうが幸せ」とは美しい言葉です。
しかし、誰かから愛される有難さをきちんと受け止め、感謝するほうが順番が先だと気づきました。
自信のなさが愛を晦ますことのないように、来年は心穏やかに過ごしたいと思います。
by jikkenkun2006 | 2008-12-31 02:11 | 週末コラム | Trackback | Comments(4)

「人それぞれ」だと心から思いたい

こんばんは。大宮です。
人生訓みたいな文章を読んでいると、「人はそれぞれ」「他人と比較するな」というメッセージをたくさん聞きますよね。例えば、こんな感じです。

<隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているのかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を獲ることであろう。目標に向かってまっしぐらに走り、わき見するな。>
(マルクス・アウレーリウス『自省録』岩波文庫)

しかし、実行するのは至難の業です。
この文章を書いたのはローマの哲人皇帝と謳われた人物ですが、わざわざ自分に言い聞かせるために書いている(なにせ「自省録」ですからね)のは、実際には「隣人」が気になって仕方なかったからでしょう。

先日、動物園のサル山を見る機会がありました。
小猿たちはけっこう無邪気に遊んでいるのに対して、成猿はボスを頂点とする力関係を常に気遣いながら暮らしているのです。猿も大変だ……。

ローマ皇帝や猿と同じく、僕も他者がとても気になります。
友人の成功や幸せを心から祝福できず、密かに失敗を願ってしまうこともあります。
親友が僕が嫌いな奴と仲良かったりすると、巧妙かつ強力に邪魔したくなったりします。
猿の時代から人間はあまり進化してないんですね。

ただし、朗報もあります。
年齢を重ねるにつれて、「人それぞれ」という事実を痛切に感じる経験が増えていくことです。
東大卒のエリートが急にひきこもりになってしまったり、独身一人暮らしだけどとても美しくて魅力的な老人に会ったり、プールだけを楽しみにして要介護の父親と暮らし続ける男がいたり……。
自分自身を振り返っても、官僚やスーパービジネスマンになる夢が破れて凹んでいたら、実はマイペースに文章を書く生活のほうが向いていることがわかったりしました。
10代よりも20代のほうが楽になったし、20代よりも30代のいまのほうがはるかに楽です。「人それぞれ」だと少しは実感できるようになったから。

同世代の日本人の動向はどうしても気になってしまいますが、よく考えると根拠のない「気になり」なんですよね。宇宙人の視点では、ロシア人の老女と日本人の32歳男性が同じに見えるはずだからです。嫉妬深い僕も、さすがにロシア人のことはほとんど気になりません。ならば、すべての他者は平等に他者なんだと考えてもいいはずです。極端に言えば、人類一人ひとりが別々の生物なのだと考えてもいいでしょう。

生まれも、性質も、寿命も、何もかもが違う。
そんなバラバラな生物たちが、「俺たちは同じだ。協力しよう」という幻想をベースにして築いているのが社会です。
僕たちはこの社会に生かされているのは事実ですが、無自覚に幻想に浸っていると他者と自己の境を見失いがちです。そして、空しい嫉妬や羨望をしながら一生を終えてしまうでしょう。

40歳ぐらいになったら、「俺たちは別々の生物だ。でも、協力はできる」というスタンスを確立し、もっと心穏やかに過ごせるようになりたいです。
by jikkenkun2006 | 2008-12-14 23:58 | 週末コラム | Trackback | Comments(4)

卑怯でなければそれでよし

こんばんは。大宮です。
仕事でも私生活でも、誉められ過ぎると調子に乗って横柄になり、けなされるとふてくされて根に持ちます。
こんな僕、どうしたらいいのでしょうか。

尊敬する作家、中村うさぎ氏が著書『バカな女と呼んでくれ』でこんな感じの文章を書いていた記憶があります。
「女たちよ! バカでもいい。デブでもブスでもいいんだよ。しかし、卑怯な女にだけはなるまいぞ!!」
煩悩にまみれた自分をさらけ出しながら生きる中村氏の言葉だけに、ビシッと背中に入り込んできた気がしました。

卑怯とは、力のある人には媚びへつらい、力のない人は踏み付けにするような様を表現する、大切な言葉だと思います。

そろそろ忘年会シーズンですね。
今年は友人の結婚パーティーが2件も入っているので、12月は様々な形態の宴会に出席することになりそうです。
誰もが楽しんでいるかに見える宴会でも、小さな「卑怯」が出現することがあります。
それは、ホスト役とその取り巻き(宴会強者)だけがワイワイ楽しみ、その他の出席者(宴会弱者)は観客のようになってしまう場合です。
すべての出席者と面識のあるホスト役は、やろうと思えば「王様」になれます。自分のスピーチばかり長々と述べ、面白い人とだけ話し、かわいい女性を独占する、みたいな行為が可能です。
しかし、それは卑怯というものです。
ホスト役には、すべての出席者が寂しい思いをせずに過ごせるように努力する責任があります。
その責任から目を背け、自分だけが楽しもうとするのは幹事失格だと思います。

僕がいる出版業界で「卑怯」の例を挙げれば、広告タイアップ記事があるでしょう。
「問い合わせ先」や「特別企画」という表記があり、広告であることを読者に知らせてある広告記事には問題ありません。
しかし、何の表記もなく、普通の記事と見分けのつかないような体裁で載せてあるのに、実はスポンサーから金をもらっている記事がたくさんあります。
一部の女性ファッション誌などは、どれがタイアップ記事でどれが純粋な編集記事なのか全くわからず、もしかすると誌面全部が広告なのではと思うほどです。
だったら「カタログ」だと告知するべきでしょう。

このタイアップ記事の何が卑怯なのかといえば、情報強者である企業と企業(僕のような出入り業者も含めて)が手を結び、情報弱者である読者を食い物にしている点です。
いまどきタイアップ記事なんかにだまされて商品を買うほど雑誌を信用している読者は少ないかもしれません。
しかし、そのような読者を想定して商品を売ろうとしている企業と、そのお手伝いをしてお金をもらっている広告代理店や出版社、その他の「ありかた」が卑しいのです。

こんな風に書いていますが、僕もしばしば卑怯になります。
宴会の幹事なのに女性参加者とばかりウホウホ楽しくやってしまうこともあります。
高額のギャラに目がくらんで広告タイアップ記事を請け負ったこともありました。
今後も、一切卑怯なマネはせずに生きていく自信はありません。
ただし、卑怯なことをしてしまったら、恥ずかしいと思って反省する視点だけは忘れずにいたいと思っています。どこかに神様がいるのだとしたら、それだけをお願いしたいです。

逆に言えば、卑怯でない限りは何があっても反省しなくていい、と思います。
失敗したり叱られたり嫌われたりしたらヘコみます。それは感情の動きだから仕方ない。他人に迷惑をかけたり傷つけてしまったという事実は受け入れるべきでしょう。
しかし、自分が卑怯でなかったならば、反省して小さくなる必要はありません。

卑怯になることだけを恐れ、他は何も恐れず、大らかに勝手気ままに生きていきたい。
by jikkenkun2006 | 2008-11-21 02:49 | 週末コラム | Trackback | Comments(3)

「つながり」を求めて

こんばんは。大宮です。
好奇心が強い人がうらやましくなることがあります。

高校時代のクラスメイトに、運動も勉強も飛び抜けてデキル男がいたのです。
おまけに性格もいい。
美男子でもヤンキーでもなかったのでモテなかった(女子高生って男を見る目がないよな…)のがせめてもの救いでしたが、羨望の念を抱かざるを得ない存在でした。

なぜそんなにデキたのでしょうか。
彼は、スポーツバカでもガリ勉でもなく、遊ぶような感覚で何事にも取り組んでいました。
少年ジャンプを読んでいるときと、数学の問題を解いているときの目の輝きが同じなんです。
つまり、僕たちがスーパーサイヤ人(俺は怒ったぞ、ベジータ!!)や三井寿(安西先生、バスケがしたいです…)のモノマネをするのと同じ熱心さで、微分の難問に挑むのです。
受験などの目的のために嫌々勉強している人間がかなうわけありませんよね。

僕自身は残念ながら好奇心が強い人間ではありません。
新奇なものに踏み込む意欲や勇気がないのです。
未知の土地にはできるだけ行きたくないし、クイズも嫌いです(答えを知らないんじゃないよ。知りたくないんだもん!)。
好奇心が強くて、国内外を飛び回って、貪欲にいろんなことを吸収している人間には一生かなわないのでしょうか……。

このように軽いコンプレックスを抱き続けてきた僕ですが、最近、ちょっとした解決策を見出しました。
「好奇心人間」にはなれなくても、「つながり探求人間」にはなれる、と。

自分とのつながりを見つけさえすれば、知らない場所にも懐かしい喜びとともに行ける気がするのです。

例えば、「母方の実家が熊本県・天草島で浄土真宗のお寺を代々やっている」ことを思い出して以来、

●九州
●浄土真宗
●カトリック(天草はキリシタンで有名ですよね)

の3つは、すべて自分に「つながっている」という感覚を持つようになりました。
かなり一方的な「つながり感」ですけど……。
そう思い込んでしまえば、九州は「お母さんの実家がある親しい土地」になり、浄土真宗のお寺やカトリックの教会は「他人事じゃない因縁のある場所」に変化しました。

カトリックへの関心を広げれば、ヨーロッパや南アメリカの国々の多くも「つながる」ことになりますよね。そういえば、大好きなペネロペ・クルス(スペイン出身のハリウッド女優)もカトリック教徒かもしれないぞ。うひょひょ、こんなところで彼女とつながっちゃったよ!

外へ向かって弾けるように広がっていく「好奇心」に比べれば、「つながり探求」はゆっくりとマイペースな営みです。世間の流行とは無関係なので、経済的な成功にも結びつきにくいでしょう。
でも、自分自身は少しずつでも豊かに深まっていく気がします。

このようにして日々を過ごしていれば、いつか世界の現在と歴史のすべてが「自分とつながっている」感覚を持てるようになるのでしょうか。
by jikkenkun2006 | 2008-11-09 23:02 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

大人になる~読書伝聞帳(3)『人間の土地』~

f0084436_0461947.jpgこんばんは。大宮です。
来週で32歳になります。
正真正銘のオッサンですよね。
それなのに、先日、知人から「大宮くんって自分勝手よね。自分が大好きなんでしょう。他者を受けとめる度量は感じない。もっと大人になりなよ」的なことを言われました。
悔しいので、「どうすりゃいいんだよ!」とぶちキレる僕。
「そうね。やっぱり男の人は結婚して子どもができると変わるよ」
それはひとつの具体策なのかもしれませんが、もうちょっと抽象的な答えがほしいのです。

『星の王子さま』のサン・テグジュペリによるエッセイ集で、答えらしきものを見つけました。

ある冬の日、郵便物を飛行機で運ぶ仕事をしていた著者の仲間がアンデス山中に墜落し、消息を立つ。厳寒期のアンデスには山賊も入らないと言われ、生還は絶望視された。実際、彼は寒さと疲労で凍死寸前にまで追い詰められる。しかし、死の眠りに陥る寸前に「生命保険」のことを思い出し、再び起き上がった。
雪の斜面で死ぬと、夏の雪解け水で沢の奥まで自分の遺体が流れてしまう。「失踪」では法律上の死の認定は4年後になるので、その間は保険が下りず、妻が窮乏することになる。せめて、50メートル先にある岩まで進んで、自分の体を固定してから死のう……。
そして、一歩また一歩と踏み出し続け、ついには奇跡の生還を遂げる。

このエピソードについて、著者は次のような感想を述べています。

<彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲内で、彼は多少なりとも人類の運命に責任があった。
(中略)
人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。>

(サン・テグジュペリ『人間の土地』新潮文庫)

「人間」を「大人」と読みかえれば、そのまま僕の質問への回答になりますね。
大人って責任を持つことなんだ……。
では、仕事や人間関係で「責任を持つ」とは何を意味するのでしょうか。
嫌なことがあっても逃げずにやり遂げる、ということかもしれません。

思い返せば、いろんなものから逃げて来た32年間でした。
わが身を守るために必要な「逃げ」もあったのですが、同じ逃げにしても無責任だったのかそうでもなかったのかは自分自身が一番よく知っています。

今後、結婚して子どもを作るかどうかはわかりませんが、どんな状況でも「自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じる」心を持ちたいなと思います。
とりあえず、明日の取材はビシッとやり遂げよう。
32歳独身男の決意表明でした。
by jikkenkun2006 | 2008-10-26 23:58 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

本物を知る~読書伝聞帳(2)『美味礼讃』~

f0084436_17154067.jpgこんばんは。大宮です。
たいていのものは美味しく嬉しく食べている僕ですが、最近、外食でのタイ料理に関しては「この値段でこの味かよ……」と不満に思うことがときどきあります。

理由は一つしか考えられません。
近所にやたらに美味しくてリーズナブルなタイ家庭料理屋があり、週1ペースで食べに行っているからです。いつ食べても、腹の底から「うまい~!」と感じ、店を出るときは入る前より少しだけ元気になっているのが自分でもわかります。

この店に最初に行ったのが4年ぐらい前なので、200食程度は食べている計算になります。
タイ料理に関してはこの味を僕の舌が「基準」にしてしまっているのでしょう。
本場のタイに行けばもっと凄い料理を安く食べられるのかもしれませんが、東京ではここを越える店を僕は知りません。

本物のフランス料理を初めて日本にもたらしたと言われる、辻静雄(辻調理師専門学校の創始者)の伝記小説が、僕の体験(レベルは全く違いますが…)を裏付けてくれました。

昭和30年代、フランス料理の学校を始めた辻は、日本には本当の高級フランス料理を知っている調理人は一人もいないことに気づき、義父から莫大な資金を借りて、まずはアメリカに渡ります。
二人の高名なフランス料理研究家に会うためです。
そして、二人から同じようなアドバイスを受けます。

<料理というのはつくり方も大事だが、できあがりの味がすべてなんだ。きみはまずそれを知らなければならない。そして、あらゆる料理のこれがそうだという最終のできあがりの味をきみの舌に徹底的に記憶させるんだ。体が若くて健康なうちにね。食べるということは、体が健康じゃないとできないことだからね。それにこれがそうだと納得できる料理をつくる腕のいい料理人の数もだんだん減ってきている。だから、食べるならすぐにはじめるべきだね>
(海老沢泰久『美味礼讃』文春文庫)

二人の紹介で辻はパリ最高峰のレストランを訪れ、そこのマダムの信頼も得て、9週間で75軒の高級レストランに足を運び、昼夜を分かたずこってりしたフルコースを食べまくります。若いとはいえ日本人には非常な苦痛であり、食べ続けたことによって辻は晩年には体を壊してしまうのです。
さらに辻はフランス料理の専門書も買いまくって読みまくり、最終的には「フランス人よりフランス料理のことをよく知っている」と評されるまでになります。

本物を知るためには、これほどまで「質と量」をこなす必要があるんですね。
ニセモノをいくら経験しても無意味だというのは怖い話です。

もちろん、本物を知らなくても幸せに暮らすことは可能です。
例えば僕は、一番安い無洗米をマイコン炊飯器で炊いて3パック88円の納豆を混ぜて食べても、「無茶苦茶おいしい」と幸福感に浸れますから。
辻も、自分たちの作っている料理は人間が生存するためには「無用のもの」だと言っていたようです。

でも、ただ生きることのみが人生の意味ではない気もします。
好きな一分野だけでもいいから、「本物」に触れ、その価値を十分に味わえるようになりたい。
大げさに言えば、人類が到達した叡智のようなものを知り、その発展史に少しでも関わりたいのです。

「本物体験」を通じてしか、新しい文化を創造することはできないことを『美味礼讃』に教えてもらいました。
僕の場合は、とりあえず良書をたくさん読まなくちゃ……。
by jikkenkun2006 | 2008-10-05 17:19 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)

友だちの定義~読書伝聞帳(1)『剣客商売』~

f0084436_11274523.jpgこんばんは。大宮です。
2年ほど前、尊敬する先輩ライターから叱咤されたことがあります。
「大宮くんは教養がないねえ。本を読んでないでしょ。原稿で知識をひけらかすべきじゃないけど、知らないで書けないのと知っていてあえて書かないのでは、文章の微妙なところで大きな差が出るよ。見る人が見ればわかってしまう。もっと本を読まなくちゃ」
図星すぎる……!
仕事で必要な資料以外にはほとんど本を読んでなかった僕は、大ショックを受けました。
それ以来、月15冊以上は読むようにしています。

最初の3ヶ月ぐらいは「ノルマ達成」のための読書という感じでした。
でも、マンガのように純粋に楽しむことができる本に少しずつ出会い、いまでは暇さえあれば何か読んでいます。
高野秀行のおバカな探検ノンフィクションとか、やみつきです!

もともとおしゃべりは好きなので、活字に「いいこと言うね~」などと合いの手を入れながら読む喜びも覚えました。
激しく同意して、気に入った箇所を音読しちゃったりすれば、作家の言葉が自分の言葉になったような気分になります。ささやかな一人遊びですね。

今後このブログで、こうした読書から得た「伝聞知識」を紹介させてください。
書くというプロセスを経て、知識が体に吸収される気がするからです。
名付けて「読書伝聞帳」。……すみません、単なる読書感想文です。

<小兵衛が見舞いの金をわたすと、稲垣忠兵衛は、これを押しいただき、泪ぐみ、
「あ、秋山先生。何の御恩報じもできぬ拙者を、このように……」
「おぬしが好きだからだよ」
「は……?」
「きらいな奴には、何もせぬということさ」
「か、かたじけのう存ずる」>
(池波正太郎『剣客商売 十四』新潮文庫)

僕はときどき、「友だちって何だろう? 知り合いは多いけど、そのうちの誰が友だちで誰が単なる知り合いなんだ?」と不安になることがあります。
他人の心はわかりません。僕が大親友だと思っていても、そいつは僕のことを「昔の知り合いの一人」程度にしか思ってないかもしれませんよね。

じゃ、自分の心はどうなのか。
取材以外では「嫌なヤツ」と付き合う必要のないフリーライター暮らしなので、基本的には「知り合い=いい人」です。
いや、性格が無茶苦茶ひねくれているのに憎めないヤツもいるぞ。
性格も職業も年齢も性別もバラバラな「知り合い」のうち、誰を「友だち」と呼べるのでしょうか。

時代小説『剣客商売』に出てくる短いやりとりに、答えらしきものがありました。
天涯孤独の身の老友が病気で寝ていると聞いた主人公。ご無沙汰していたがすぐに見舞いに向かい、何の見返りも期待せずに大金をさらっと渡します。
「好きなヤツにはできるだけのことをする。嫌いなヤツには何もしない」
シンプルですね!
付き合いの長さや利害関係ではなく、好きか嫌いかで友情の有無が決まっていることがわかります。
好きな人のために力を尽くすことは、自分が信じている価値観(上記の主人公の場合は「謙虚さ」や「欲のなさ」)を確かめることになるのでしょう。その確認行為や感情が「友情」なんですね。

我が身を振り返っても、同じようなことをしているのがわかります(大金は渡せませんけどね)。
AくんもBくんも僕にとっては同じ程度のつきあいの知り合いだったとします。
仕事でテンパッているとき、Aくんから頼みごとの電話がかかってきました。
「申し訳ない。忙しいんでしょう?」
「いや、大丈夫。すぐやるよ」
逆に、暇で暇でどうしようもないとき、Bくんから頼みごとの電話がかかってきました。
「申し訳ないけど、お願いできる?」
「ちょっと難しいね。いま忙しいんだ」
「いつならできる?」
「3ヶ月ぐらい先まで予定が埋まっているので、難しい。悪いね」
「……」
このようなやりとりがあると、Aくんは友だち(Aくんは僕をどう思っているかは別として)でBくんは僕にとって知り合い以下の存在であることがわかります。

しかし、実際はそうシンプルにはいきません。
「いい人だという評判を作りたい」「恩を売って見返りがほしい」「自分をいいヤツだと思い込みたい」といった計算が無意識に働き、Bくんにも何かしてあげてしまいがちだからです。

すると、「友だちだけどなんとなく好きになれない」という不思議な人間関係が増えていき、実は一人も友だちがいないんじゃないかと孤独感に苛まされることになります。
すべては自分を楽なポジションに置きたいという甘え心から起きる副作用なんだと、いま書いていて気づきました。

もう少し自分と厳しく向き合って、「嫌いなヤツには(いやがらせも含めて)何もしない。好きなヤツにはできるだけのことをする」を心がけたいと思います。
その結果、友だちが3人ぐらいしか残らなくてもサッパリしていい、ですよね。
by jikkenkun2006 | 2008-09-07 01:20 | 週末コラム | Trackback | Comments(2)

静寂の海が「聖画」(極私的聖地巡礼その3~長崎~)

f0084436_3123529.jpgこんばんは。大宮です。
8月も終わってしまいましたね。
海には縁遠い埼玉県&東京多摩地区育ちの僕ですが、ひと夏に一度ぐらいは海に行きたくなります。
今年は、2泊3日で長崎県を旅行しました。

「隠れキリシタンの伝統を引き継ぐ教会を見る!」というテーマも掲げていたので、3日間で10近くの教会を見学しました。
短時間に詰め込みすぎ、すでに記憶がグチャグチャです。
最初に見た田平天主堂(写真。明治初期、建設資金不足のため信徒が自分たちでレンガを積んで建てたらしい。すごい!)だけは妙に覚えているのですが……。

一番印象に残っているのは、長崎の複雑な海岸線が作り出した、池のように静かな海です(二番目は平戸市で食べた素朴なちゃんぽん。ちょっと焦げた味が旨すぎるよ!)。

長崎空港から佐世保を通って平戸に行き、長崎市に戻るまで、どこにでも海がありました。
にも関わらず、波らしい波が一つも見えません。怖いくらいに静かな海なのです。
ちょっと離れた場所から海岸を見ると、深い青色の床の上を歩いてどこかに行けそうな気がしてきます。

隠れキリシタンの古里として知られる外海地方には、遠藤周作の小説『沈黙』の一節を引いた「沈黙の碑」が立てられていました。

「人間がこんなに哀しいのに 主よ、海があまりにも碧いのです」

確かに、キリスト教に対する弾圧が過酷さを極めていた江戸時代だったら、この美しすぎる海は「神の残酷さ」を連想させていたかもしれません。

恨んでも憎んでも、海は何も答えてくれない。答えてくれない代わりに、いつでも静かに目の前に広がっている。その海に逆に見つめ返されながら、自分は信仰といかに向き合っていくのか――。
悩み続けた信徒も少なくないでしょう。

十字架一つを隠し持つことも命がけだった当時、神々しいまでに優しい表情を持つ海は、果てしない苦行が続く陸地の現実を相対化させてくれる聖画の役割を果たしていたのではないでしょうか。あくまで僕の妄想ですが……。

僕は幼い頃、西武グループが乱開発する前の埼玉県所沢市で育ちました。
カブトムシがいる雑木林とカマキリがいる草むら、ザリガニがいる川や田んぼが「原風景」です。
学生時代、旅行先のベトナムで同じような風景に出会い、息が詰まるほど唐突で強烈な懐かしさを感じました。
いま思えば、雑木林を抜けていく古びた舗装道路に、僕の根っこのようなものが伸びているのでしょう。

長崎で生まれ育てば、この「根っこ」は当然ながら海になります。
海の存在を抜きにして、長崎におけるキリスト教信仰の歴史は語れないのではないでしょうか。

長崎旅行から2週間経ったいま、経典や教会ではなく、自然や街並みなどの「原風景」が人の心に与える影響を考えています。
by jikkenkun2006 | 2008-08-31 23:59 | 週末コラム | Trackback | Comments(0)