チンジャオロースー丼を作りました

チンジャオロースー丼を作りました_f0084436_2345142.jpg●朝食:ピーマンだらけのチンジャオロースー丼、玉ねぎと松山揚げの味噌汁
●昼食:試食品各種@さいたま「ニューフードフェア」
●夕食:チャプチェ

 出版業界の凋落が叫ばれて久しいのですが、東日本大震災後は厳しさが増していると実感しています。そんな中、とても励みになる本に出会いました。著者は、「本を読みたい人は減っていない。読み手の知性の質の総量は時代によって増減はしない」とした上で、インターネット時代における書き手の姿勢を次のように説いています。ちょっと長いけど引用しますね。

<本を読むための機会はできるだけ多様で多種であったほうがいいと僕は思っています。図書館で読む人も、友だちから借りて読む人も、家の書架に家族が並べておいた本を読む人も、ネットで公開されたものを読む人も、多ければ多いほどよいと思う。けれども、今挙げたのはみな「自分では本を購入しない読者」たちです。こんな読者の数がいくら増えても、たしかに著作権者には一文の利益ももたらさない。けれども、じゃあ、「本を読むが、買わない」読者はいてもいなくても同じだということになるのでしょうか。僕はそう思いません。
 前にも申し上げましたが、「本を自分で買って読む人」はその長い読書キャリアを必ずや「本を購入しない読者」として開始したはずだからです。すべての読書人は無償のテキストを読むところから始めて、やがて有償のテキストを読む読者に育ってゆきます。この形成過程に例外はありません。ですから、無償で本が読める環境を整備することで、一時的に有償読者が減ることは「著作権の不利」になるという理路が僕には理解できないのです。
 無償で読む無数の読者たちの中から、ある日、そのテキストを「自分宛ての贈り物」だと思う人が出てくる。著作者に対して反対給付義務を感じて、「返礼しないと、悪いことが起きる」と思った人が出てくる。そのときはじめて著作物は価値を持つ。そのような人が出てくるまで、ものを書く人間は待たねばならない。書物の価値は即自的に内在するのではなく、時間の経過の中でゆっくりと堆積し、醸成されてゆくものだと僕は思っています。>(内田樹『街場のメディア論』光文社新書)

 僕はこの新書を古本屋で定価の三分の一で購入しました。コーヒー代より安い値段で、おそらく一生ものの知見を得てしまったことになります。とんでもない「贈り物」ですね…。僕はどのようにして反対給付義務を果たせばいいのでしょうか。有償無償を問わず、読者に呪詛ではなく祝福を贈るような文章を一所懸命に書いて公表するしかないような気がします。怖いようで、晴れやかな読後です。
by jikkenkun2006 | 2011-10-06 23:04 | 食日記


<< 豚キムチを作りました 中国風おかゆを作りました >>